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当然に
- 2016/12/15(Thu) -
数日前の、ちょっとつかれたキーマカレーにきょうも火をいれ、そこに、

さっき買ったばかりのピチピチの牛肉をさっと炒めて投入する.






人生、こんなことが何度あったってよかろ.
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期待
- 2016/12/14(Wed) -
私が死んでも、


猫たち犬たちには、


喪失感でうろたえたりせず、


無常を観じて


淡々と生きていってほしいと願う。

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目覚めた人たちの道
- 2016/12/07(Wed) -
釈尊が思惟し、ソクラテスが思考したころよりは、
現代に生きる人々は、学校教育のおかげで、
ニンゲンの細胞が生まれた時から生成と死滅を繰り返し、
ついには死滅が支配するということを常識で知っているし
ニンゲンは世界規模の殺し合いを何度も懲りずに行ってき、
いまも飢えて死ぬ子どもたちが世界のあちこちにいることを
歴史を勉強することで、ニュース報道に接することで知っている。


それなのに、釈尊が覚醒した知恵や、ソクラテスがこだわった知恵を
いまだに人々が身につけられないのは・・・・・・それが、ニンゲンなのか


かつてニーチェは、「喜びよりも悲しみのほうが深い」 と言った。
確かに、たとえば、子猫を見ても、かわいい、と喜ぶよりも
それがクルマや他の動物によって早々に殺されることが 「真実」 と諦(あきら)めているほうが
自身の心を守ることはできるだろう。
しかし、たとえ、「常なるものは無い」 のが真実だとはいえ、
世界の喜びの後ろに全て悲しみを見る目もまた、偏った見方の1つだろう。





ニンゲンが、本当に、仏陀の知恵、つまり、目覚めてしまった人の認識知や
ソクラテスが追究した知識を、あたりまえのようにわきまえるようにならない限りは
政治指導者同士の、あるいは、研究機関での、あるいは、
学校や近隣同胞との、争いもめごとは終わらないだろう


釈尊が目指したのは、全ての人々が自分と同じような知恵を得て
世界全土がまっとうに動く地上の姿なのだったろう


争いこそが、競争を生み、仕事も研究も進歩させる、という考えは、
そういう状況しか知らないニンゲンならではの理屈だ。
相手を虚偽によって落し入れ、密室会議で出し抜くやり方での 「勝利」 など、
所詮は、蝸牛の争いの勝利にすぎず(あるいは単なる当事者の安逸のためで)、
そのようなものは、人類全体の進歩にも、社会善への前進にも何ら寄与しない





世界はこのようにあるのに

ニンゲンたちの間では、なぜ、「見えない」 者たちが圧倒的なのか


(本記事は2008年10月7日に書かれた)


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敬愛する畏友へ
- 2016/12/06(Tue) -
自分への称賛を反芻する悦びは、正しくない、尊くない。




ダレダレと肩を並べて称賛されたなら、




昔のきみだったら、机を蹴飛ばして、「おれをそんなやつらと同列にするんじゃねぇ!」と言っただろ?




昔どおりでいてくれよ、






実力を保持する者が、





世を見渡す余裕をもって。




carolina
(ウプサラ大学中央図書館.以前、私の机があった場所)
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芸術
- 2016/11/22(Tue) -
音楽は、いい、

目をつぶっていても、感動できる。





絵画は強烈だ。



一目で我々の心を射抜く。





それにくらべて、


文学は、


静かな宝石のようだ。




芥川龍之介がむかし言ったように、




芸術の軍配は、 


音楽

絵画、


が、


トップを占めるとしかいいようがない。



c
(ウプサラ大学中央図書館・通称:カロリナ)
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他の生き物とともに生きる
- 2016/11/01(Tue) -
スウェーデンでは、動物と暮らしていた友人が多かった.

私の隣のニーナは、ハツカネズミを飼っていて、私の猫とよく遊ばせていた.

大型犬を散歩させている人々は、まずたいていリードなしだった.

私の猫は、そんな〈自由〉な犬とすれがっても、ほえられたことさえなかったし、犬を恐れてもいなかった.

犬の調教が、広い国であるにもかかわらず、しっかりしているのだ.

私の猫は、マーケットの前で、そんな犬に混じって私を待っていたものだった.

廊下のつきあたりのロッタは、1メートル以上のコモドオオトカゲを飼っていた.

(以上、ペット禁止の学生寮でのことである.そういいながら、外国人学生を管轄する部署の長のところには、私の名前のファイルに、私の飼い猫の写真<私が所員のだれかにメールで送った>がしっかり保管されていた.あたたかい.)


猫の競走相手のリスは無理としても、ビルの周りに徘徊しているハリネズミを、猫の友人に飼おうとしたら、獣医から 「スウェーデン人なら、そんなことしないぞ」 とつまらなそうに言われた.

いわば、保護動物で、そんなことはいけないことなのだが、その獣医の言い方も、スウェーデン人らしいといま思い出す.

生き物を大切にするのは、弱者と環境にやさしい彼らの国民性には当然のことなのだ.

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(2006.8.22.記)


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回答
- 2016/10/24(Mon) -
── なんで日本の大学で教えないんですか、

という最も多い質問へのこたえ.




留学先がスウェーデンのウプサラ(Uppsala)大学だったため、そこで、



日本の大学のレベルの低さを実感したからです.



もっとも、私が日本でいた大学は、早稲田大学修士課程と東北大学博士課程ですが.



前者は、私が古文献を完読して集めて作った資料の論文が、当時早稲田のだれも読めない原典だったため、学部教授会でどこかの論文の盗作だろうと一方的に決めつけ、証拠である私の勉強ノートを見せる機会を与えずに論文をボツにし、

後者は、私が、博士論文の執筆で過労で入院した合間に、私の論文の「注」の「一つ」を、コソ泥し学会発表した論文指導教授がいたありさま.
「ごめんね、使っちゃった」とその教授は言い、「こうやってあと数回ぼくを助けてくれたら、どこかの国立大学の教授に推薦するから」と下卑た笑いをする始末.

わかるでしょう. どんなに、彼らが、ゴミ、下衆、か.




日本の大学の小ささと未熟ぶりがわかったら、


受験生よ、



日本の大学を過大視しないで、そこそこのものだとおもって踏み台にせよ.



自分を評価できるのは世界のどこかの本物だ、と信じて勉強努力せよ.






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正しさの(一)
- 2016/10/18(Tue) -
人は、みな、自分の愛するものと生きている.生きているなら、愛するものといるはず、という心理の逆である.




愛する研究対象



愛する人




愛する動物





役立たずだが愛さざるを得ない子ども・・・など




だから、




ニンゲンはみな幸福なのです.





それを、




ノーベル賞をとった人と比してうちの息子の不出来を嘆くのはまちがいとなります.





愛する研究対象に邁進した人と、

愛する木偶の坊の息子にご飯を作り続けた人生と、




自分の愛の対象にすべてを捧げた、という点では同じです.



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gunst
- 2016/10/12(Wed) -
映画 『恋する惑星』 が私の最後の青春時代だった。



30代半ばであった。




あの映画が象徴的だったのは、






恋愛の



刹那性



を描いたことだった。





だから、




我々は、





恋愛にいそしんだのである。





人生の速さに負けないように恋愛を。






それは、その後、スウェーデンに移り住んだあとも、正解の意志だった。



carolina
(ウプサラ大学中央図書館、通称 カロリナ. ここにあった私の机で4年終日勉強した.)
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- 2016/10/08(Sat) -
犬や猫などのペット動物の生涯は、寝て・動いて・食べて・寝て、の繰り返しだ.



ニンゲンがそのような人生を強要されたら、半分監禁と同じで、刑罰に近くなる.

ふつうは、そのような生は御免だろう. いや、引き籠りの人々はそのような生を選択したことになるのだろうか.

いや、高齢になれば、だれでもそのような人生を送ることになるのか.



高齢になると、寝て食べて動いてまた寝る、という犬や猫と同じ生を生きることになるのだとすれば、


それ以前の私たちの生はそれとどれだけ異なるというのだろうか.





ノーベル賞をとったり、苦しんでいる人々を救う活動に挺身したり、

人々の安寧のための活動に精進したり、人類の幸福を増大させるような技能を伸長させたり、


そのような活動に従事して努力するのが我々ニンゲンの人生だというのだろうか.




私の場合、勉強も暇つぶしだった.猫がおもちゃにじゃれるように、気晴らしに勉強しただけだった.


それで、海外に派遣されたりしたが、所詮は、自分の愉しみのための活動だったから、


ほどほどで、もういいか、とおもってやめてしまった.


私のようでなく、学問を「道を追求する」というような神聖な目的で行っていた者たちや、

よりよい生活を保障する職業に就くために勉強生活を行っていた人々は、


いまも学問世界にいて、人類のかろうじての進歩を支えているということになるのだろう.




自分の意志で生きている、というのは、極めて過酷な状況下で生きる人々はみな抱かざるを得ない感情だろう.

自殺を意志するか迷い続けている人々にも、生きる選択は意志的なものになるのだろう.

無論、人類に貢献する活動をしようと意志している人々の生もまた.




では、きょうも寝て食べて動いて寝るだけの動物たちの多くは生きていないということになるのだろうか.


意志的に生きているグループのニンゲンたちが、真に生きている、と言えるだけなのだろうか.





食用にされる家畜たちの生はいざ知らず、犬や猫たちの生、大部分の野生の生命は、

生きる意志をもたない、有意義なこと何も無し、の生なのだろうか.



生きるという意味において、ノーベル賞受賞者と我が家の猫と違いがあると私たちは断定してよいものなのだろうか.

かつて、死んだ我が家の猫を助手席に載せて埋葬場所へ向かうとき、クルマのラジオで我が国のとある人間国宝の人物の死を報じていたのを聞いた時の私の感情は、愛する者の死のほうが激甚な悲しみで、その生の損失も大きい故に、その生もまた大きかった、という確かな悟りを生んだ.


生命とは、奇妙なものだ.数分前までは動いて息をしていたものが、もう、動かず息もしなくなる.ニンゲンが生を創造できない以上、生きるということ自体が、奇跡で尊厳ある事象なのだと言うべきだろう.





我が家の猫たちは、きょうも、尊厳を各所で示しつつ、寝て、食べて、動いて、寝ている.


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