恋愛 ── スウェーデン人が教えてくれた大きなもの
- 2017/08/27(Sun) -
私がこのようなブログを書くことにどんな意味があるのかとおもう

高校の同窓が、お書きなさいよ、とおっしゃると、高校時代の部活のような晴れやかな気分で書こうかとおもうが、

私の書くスウェーデン人の恋愛をお読みになり、私にご連絡をくださる(主として)方々には、

私はどんなことを言う資格があるだろう.



私は、日本にいたときは、よくいる元気で盛んな男だった.
恋人もいた、同棲もした、誤謬も重ねた.



だから、私にご自身の恋愛のことを書いていらっしゃる人にも、私は、それが恋愛ではないですか、としかいえそうもない.




それが、人間的なことであるし、それが、そうなのでしょう、と.





スウェーデンで、しかし、私は、日本では知らなかった恋愛と男女関係を如実に体験した.




だから、私は、確かにスウェーデンにゆく前と後では自分がかわったとおもうし、

その結果、おおかたの日本人の行動様式に距離をとって観るようにもなった.

スウェーデンに行く前の私を知っている昔の女友達がいま私を見たら、どうおもうか.



よくなったとおもってくれればよいが、

日本的には、そうでないかもしれない,まあ、逢う機会ももうないか.





スウェーデン人は、恋愛にあせらない、

性的なことにむしゃぶりつかない




そうしたことは日本人にはない性質だ




告白、というようなことで恋愛が始まるようなことはない


親しく話し、たがいがわかりあい、それがいつしかパートナーになっている、という現実となる




私の隣のニーナがクリスマス帰省するときに、私が彼女のペットのネズミの世話を頼まれて部屋の鍵をもらったとき、



同じコリドーのイラン系の2世男子学生は、

「いいなー、おれもニーナの部屋はいりたい」

と冗談を言ったが、(たぶん、それは日本人も言いそうなことだ)

スウェーデン人学生はそんな感情はおくびにも出さなかった.



そもそも、私自身が、鍵を渡されたことで、それでニーナの感情がなにかなどど考えさえもしなかった.

私も変わったのである.



スウェーデン人は、性的なことにいろめきたたない、


そして、
私もまた、そのようなスウェーデン人的なニンゲンとして認められたから部屋の留守を任されただけだろう.





男だ、女だ、性的だ、とごちゃごちゃ言っていて、

人類の半数と

あえて距離をとったり、いたずらに目の色かえたりしていたら、人生がもったいないではないか.




男も女もまず、ニンゲンなのだ.
もっと、のびのびと自然におだやかにだれとでもつきあいたいものだ.







経験した人でないとわからないだろうが、きっと、






恋愛は、そんな異性観をさらに進んだあとに見えてくるものなのだろう.

人生、もったいないぜ.




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(2012.5.16.改)
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個と環境
- 2017/08/27(Sun) -
もうこの年齢だから言ってよいだろうが、

個にはその存在がおさまりきる環境とおさまりきらない環境がある.

我が家にかつていた黒猫は、親きょうだいたちと異なり、

エサの袋は自分で噛み破って食べ、

私の運動用のバランスボールや飲料のペットボトルは爪で破り、

サッシと網戸を自力で開け、自由を欲し室内飼いの環境を超越していた.



ヒトにも同じことが言えよう.



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スウェーデン人の恋人
- 2017/08/25(Fri) -
彼女は、つきあいの当初、
「あなたには、もっとスウェーデン語ができるようになってほしい」
と言った.

スウェーデンに来てスウェーデン語を習い始めた私は、生活に支障はない程度には1か月後には話せたし、
私がいたノルド語学科とインド・ヨーロッパ語比較言語学科はともに授業はスウェーデン語だったが、
それでも彼女の要求は高かった.
それは、私がまだスウェーデンの大学に入る外国人学生のためのスウェーデン語の国家試験に受かる前のことだった.



私は、そう言われたときは、なんて厳しいことを、と感じたが、

後になって、たとえば、スウェーデン語がしゃべれなくてもあなたとなら、などと言われるよりはずっと心地よかった

そのときの彼女は私に何を求めたのか

ずっとスウェーデンにいる人間に私になってほしかったのか

自分の親族の年寄りや子どもともスウェーデン語で話せる人間になってほしかったのか

単に、英語だけで済ますお手軽な人間でいてほしくないとおもったのか

「大切で意義深いことを話すにはスウェーデン語でなければならない」
というのが彼女の弁だった.

彼女は、もちろん、マーケットのレジ打ちでもきちんとした英語を話すスウェーデンのウプサラ大学の学生である

英語などなんの問題もないはずだった.

彼女の母国を尊べ、ということか、それとも、・・・

やっぱり、スウェーデン語くらいスウェーデン人と同じくらいに使えるようになろうという気概をもて、

ということだったのだと、その後ずっと私はおもっていた.



彼女と出会ったのは、北欧神話である散文 『エッダ』 の授業だった.

それは私が日本で読みかじった古代アイスランド語の文献だ.


昔のアイスランド語が読めるのだから、現代のスウェーデン語はもっとできるようになるはずだ、
という彼女の言葉を、そういえばさっき思い出して、おもわず笑みがこぼれてしまった.

私は、スウェーデンでは、ほんとうに、たくさんたくさん励まされて勉強していたのだ.スウェーデンでは……



いまは、彼女が使ったその言語の私の辞書だけが書棚に残る.


ああ、それと、彼女がいつもしていた、スウェーデン流の、頸にバンダナを巻く習慣も.


b



(10.5.9.記)

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吾郎はなんで海堂をやめたのか
- 2017/08/25(Fri) -
古い友が携帯のLINEを始めたようで通知があったので最後の挨拶をしておいた. 121126
(もっともその後、現在平成14年になってもやっぱり話しているが.)





彼は、スウェーデンから戻った私が、日本の大学に愛想をつかして仙台でぶらぶらしていた時に東京に破格の給料で呼んでくれたやつだ.その前は、スウェーデンから戻らない私に早稲田が早く修士課程を終えろというので、私の修士論文をスウェーデンからのメールで受けて私の代わりに印刷して製本して大学に出してくれたりもした.





その彼の御膳立ての職場を、私は数年で去ったのである.





理由は、茂野吾郎と同じなのだ.





もう、それじゃあ、おれはつまらないんだ








もっと




生きたかった




だけなんだよ




まあ




わからないだろうけどさ




goro


151115
上の記事が、標題に合っていないことに気づいたので加筆する.

ニンゲンの中には、

自分が属する組織で、

毎日8~90%くらいの緊張感であることが普通、とおもえる種類と、

毎日、昨日と同じ緊張感で生きていいはずがない、とおもう種類がいるのだ.

前者は、ニンゲンの大部分.会社の上席にいるような者はほぼこの種類である.

後者は、毎日、胃がすさむような、

まるで岩壁登攀をするように

日々何かと戦って

前進進化する自分を体幹し続けなければ生きられない種類なのである.


吾郎は、

海堂にいても、昨日と同じように努力進化できたろうが、

その前進度合いは、もう、自分で予測できてしまうものになった.あたかも、眉村や佐藤の進化のように.

その、

自己進化の比例直線のような軌道にのって明日も生きることは、

吾郎にはできなかったのである.

吾郎は、比例的上昇ではなく、

もっと、できるものなら、tremendous  に、極限まで自分を高めなければならないと自己指令した.

明日も海堂のグラウンドを走るのも進化の道だろうが、それよりも、もっと激烈な進化を求めたのである.




かくして、吾郎は、海堂をやめたのであった.




ニンゲンの中には、


少数派だが、


いるにはいる種類のニンゲンの道行である.


Rådyr



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偉丈夫
- 2017/08/22(Tue) -
久しぶりに病院に行った.




夕診時間である.




さらに大型台風が翌朝未明に島を直撃する、というときであった.




私の例の内臓の薬を、飲まないでもいいや、とおもって滞っていたところをもらいに行ったのだ.




* * * * * * * *



医師と無沙汰のあいさつをして、会計を待っていたら、



車椅子の入院患者が自動販売機に来た.私のすぐ横である.



彼は私より年長で、よれたパジャマと寝癖のついた頭と無精髭であった.



百円をいれて自販機を見て呆然としている.



30ある自販機の品物のうち、百円で購入可能ランプがついたのは、水とポカリスウェットの小さなボトルだけだった.



私は、彼の左脚が膝から下ないことに気づいた.



そして、頭にも障害が?……などと心配になった私は、彼に、「この二つが買えますよ。どちらですか。私が押します」と尋ねた.



彼は、「おれがほしいのは右のほう」



と言ったので、私は右側の清涼飲料のほうのボタンを押した.



しかし、落ちてきたボトルを見て、彼は、「ちがう。おれがほしかったのはオロナミンCなんだ」
と述べた.オロナミンは最上列右端であった.



「右端」 を 「右のほう」 という語法はありうる.誤った言い方ではない.



私は自分の過失を認め、しかし、



「あなたが入れたのは百円ですから、水とそれしかランプがつかなかったんです。オロナミンは百十円です」



と述べた.彼は私の言うことの一部だけに価値を認めたのか、自分の車いすの座布団の下をまさぐって百円硬貨を探しだした.



「これはあんたにやる。ええと……、買うつもりで、百十円あるはずなんだが……」



「あるんですか」



「十円ある。ちょっとみてくれんか」




片脚のない彼を持ち上げると、尻の下に十円硬貨が座布団の上で恐縮していた.



彼はそれを追加投入して、無事に所期の飲料を買い求めた.



「これはおまえにやる」 さらに彼は最初に買ったものを私に突き出した.



「いいですよ。だれかお見舞いに来た人にでも」



「いいから!」



年輩者にこう言われたら、従うしかない.




名前を呼ばれたので会計に行ったら、受付の女性が、「あのおじさんやさしいから」 と私に微笑んだ.




私は彼のところに戻り、小さなボトル飲料をもらい、彼の名前と病室の階をきいた.





「台風が来るんだろう。クルマが走れなくなる前に、あんたはもう帰れ」




私は辞儀をして 「それでは、また」 と背を向けた.

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男女の隔て
- 2017/08/22(Tue) -
日本人よりも、外国人のほうが、男女の間の距離が近そう、あるいは、フランク、あるいは、闊達、であろうことは、TVの外国映画などで感じた日本人は多いだろう。もっとも、その大半はアメリカ社会の描写なのだが。

スウェーデンでもまた、その通りで、日本人としての私の偏狭な 「人・異性との接触の常識」 は覆された。そして、「アメリカ」 と比べても、スウェーデン社会の男女の壁ははるかに融通がきいていた。アメリカやドイツやロシアから来た女子大生たちも、私同様に、スウェーデン人の女性教員の自由さには驚きを隠さなかった。

1人暮らしの女性でも、家に招いて晩餐をともにする男性は何人かいるものだった。私も、何人かの女性にそのような招きを受けて家に行った男の1人だった。

無論、そこになんら 「いかがわしい誘惑」 などがあるはずもない。日本流の誤ったスウェーデン観(あるいは、誤った 「性意識」)のせいで、そのような場合、「家に招かれたらOK」 などと勘違いする輩は、スウェーデン社会には存在する場所がない。

男女が親しく出会っていると、すぐに性のにおいをかぎとる日本人たちは、自ら道徳家ぶって他者を非難糾弾することで自らを高めていると思っていることだろうが、日本社会ではいざしらず、一人間としてみた場合、自らの 「世界」 を狭隘なものにしているだけのことだ。

そのような人は、人類の半数と 「親しく、効果的に、意義深い」 つきあいができる機会を抹殺しているのだから。

自分より優れた人格、自分にない感性をもっている人、自分が学べるところのある人間 ―― そういった人間を排斥することしかできない日本人は、ちっぽけな 「地位」 や 「利権」 を手にしてそれを守り享受することしか願うもののない者に実に多く存在する。

なぜ、自分にない能力をもった人間を、性意識やコンプレックスのゆえに歪んだ扱いしかできないのか。

もっと世界を見ろ。もっとひろびとろと人間を受け入れよ。異性でも、その能力・人格・感性のゆえに尊ぶ心を身につけよ!


(本記事は2007年12月13日に書かれた.)
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スウェーデンの性教育の本質 ― 『14歳の母』 について・続
- 2017/08/21(Mon) -
以前、この番組について書いて、コンドームの使用のことを書いたところ、婚前交渉を薦めるのか、アメリカの純潔教育のほうが優れている、という書き込みがあったので、その読み間違いを正しておく.


私の文章は、正しい異性観を与える教育が日本にはない、ということから書いたものだった.

性を何か禁忌の対象にするような、語るに日陰でするような風潮が日本にはある.


それが、あの番組にも満ちていて、妊娠が起きてから親は荒れ狂い、女の子はうろたえる、という構図になっていて、そのような状況には、あの国ではならない、ということを書いたのだった.


コンドームは、大学生用の雑誌のロゴマークにも使われているが、それは、婚前交渉を奨励しているのとは無論ちがい、もしも妊娠を望まない時に性交渉をもつ場合、あるいは、相手のことを完全に知っているのではない段階で性交渉をもつことになった時、また断れない相手と交渉をもつようなことになった時の感染症の予防のためとして、必須の、常備するべきものとして一般常識になっていることを示しているのである.


アメリカの〈純潔教育〉と言われているもの現実と、私が知るスウェーデンの性教育の現実の結果がどう違うか、私は数字統計では知らないが、たとえば、アメリカの単語には性的にきたならしい罵り言葉が多いのに対して、スウェーデンには、性的な罵り言葉はない. ☞スウェーデン人―我々は、いかに、また、なぜ / Gillis Herlitz


スウェーデン人の間より以上に、性的な事柄に自由でおだやかな気持ちで接することができる集団を私は外国で知らない.異性を真の意味で大切にする考え方を教えるのがよりよく成功していると言えるだろう.


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(本記事は2006年12月7日に書かれた.)


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崇高な彼女
- 2017/08/19(Sat) -
(10.6.16.記)


1か月ほど前には、わが家におなかの大きいメス猫が3匹いた.

1匹めを、考えに考えた末に避妊手術した.


ぺったんこになったおなかで帰ってきた彼女は、もともと親もわからなかったのだが、これで子ももてなくなった.
これからは、私ひとりが彼女の家族だ.


翌日もう1匹を獣医に連れていこうとしたら、ふっつりと姿を消した.そして、そのまま、いまも見なくなった.


そして、3匹めをどうするかためらっていたところ、彼女も姿を消した.そして、ぺったんこのおなかで戻ってきた.

その彼女は、えさをよく食べるようになったが、子猫がそばにいるようには見えなかったので、死産だったか
流産したのか、かわいそうに、と思っていたが、

きょう、子猫4匹を連れて、ベランダに戻ってきた.

その母猫も、そのまた母猫も、私のところで、この3年の間に出産してきた.これで、4代目ができたことになる.


よく、野良猫の避妊手術は必須という意見に出会う.

しかし、猫も、街猫として土地に住む権利をもつはずだ.

食事とトイレをヒトが始末してやれば、世界遺産の、人口と猫の数が拮抗する西ヨーロッパの歴史的な街のように、
ヒトも猫もすみやすい土地になるのではないか.



私のとなりには、私が妊娠中にもかかわらず手術した猫が寝ている.彼女の孤独はどれほどだろう.


栗之丞



私のところの猫の家系は、孫は自分の祖母の猫を知らないようだが、二代目は自分の母も子どもたちも知っているようだ.
娘たちとはいまでもならんで日向ぼっこしている.猫にも、家族意識があるのだ.


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子どもが自分でエサをもらいに動けるまでは、どの母親も、自分は一切たべずに、運べるエサはくわえて巣に運んだ.

牛生肉なども、自分は絶対に食べず、5回でも、6回でも、家を出て、ベランダを下り、木に登り、隣の廃ビルの下の
子猫のところまで、食べ物を運ぶのである.
それは、初代も、二代目もそうだった.そして、いまの母親もそうするだろう.

自分は食べず、授乳しているので、やせて筋ばっても、母猫は子猫へとエサを運ぶ.



その姿は、どんな兵士にも劣らず勇壮で、


どんな修行者にも劣らず忍耐強く、


どんなメロスにも劣らず断固とした意志が貫いてい、


どんな神さえも道を譲るであろう神々しさをたたえていた.



二代目も三代目も、残ったのはメス1匹きりだったから、いまの赤ん坊4匹もいずれは旅立つことだろう.

しかし、母の務めはそのようなことにかかわりをもたない.


彼女は、ただ、 貫徹する だけなのだ.

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(当の子猫の写真は後日掲載)



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世界
- 2017/08/17(Thu) -
世界は、



美しいはずなのだ.




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旅行や、



異境の土地へ異動になったりしたときくらいしか人はこのことに気づかない.



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私たちは、




本来、満ち足りている存在のはずなのだ.





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幸せ、とは
- 2017/08/14(Mon) -
私のこのような文章でも読んでくださる人がいるようで
年若い人から、私は私の幸せを求めるべきだ、というお言葉をいただいた。


私が、ここで、「・・・のような家庭は幸福だ」 とよく書くからだろう。


ドストエフスキーだったか、「幸福な家庭は・・・だが、不幸な家庭は~だ」 という言葉があったとおもう。
「・・・」 と 「~」 にはどちらかに 「さまざま」 どちらかに 「同一」 という言葉がはいったはずだ。
いまの私はそのどちらがどっちだったかは覚えていない。
私が言えることは、幸福には、先の若い人の言のように、「さまざま」 なかたちがありそうだが、
不幸は、その形態はさまざまでも、原因は、「ニンゲンの愚かさ」 に基づくという点で同一、だと思える。


私は、しかし、幸福は、追い求めるものではないように思うのだ。


私は、永住したいと願っていたスウェーデンから、日本のある一人の女性の求めに応じて戻ってきたが、
結局、その相手とも続かず、日本での目的を失った。


そして、日本で身体をこわしてスウェーデンに戻れず、さりとて日本でも論文ができず、
一時、企業の雇われ頭脳として働いたのち、
いま、南の離島の若者に好き放題しゃべることで日々の糊口をしのいでいる。


そんな私が言うのもおこがましいが、幸せは、求めるものではないのだ。



私は、私をスウェーデンから呼び戻したその日本のかつての恋人と悩んでいたときも、
身体をこわして仙台という土地で無為のまま病院で過ごしていたときも
東京で、私の頭脳を利用しようとしていた会社に使われていたときも
ずっと、私は、あかるい蒼穹を見上げつつ幸せであったのだ。


なぜなら、私は、幸せな生き方しかしない、から。


私はこうして生きてきた。そして、これからも、どこに行くかわからぬが、生きていく。





世界をみつめつつ



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(本記事は2009年2月21日に書かれた.)


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