人生の決定
- 2013/05/28(Tue) -

( Uppsala, Sverige )

シオスクや自転車屋、同じ造りの隣建物にいる中国人留学生のユリィを訪ねたときは、この、自分の建物の正面の坂道を下って帰る。

体力が最も充実し、自分の頭脳が未来に光をもたらすことを信じ、勉強と友人との語らいだけを最高の施設でしていてよい時代だった。スウェーデン、ウプサラ。








日本で私は、東北大、東京の一部上場企業と渡り、「嘘」 と 「小ささ」 に呆れ日本を諦めて、また海外に出る前に、沖縄八重山諸島の海亀のNPO団体によもやの期待を持ってきたが、「嘘」 以上に職員の腐敗は憐れむべき限度も超えていた。


だが、一時滞在で来た宮古島で、私は離島の子どもに自分が教え伝えるものを持っていたことに気づく。海外の就職内定先はキャンセルして、「自分を見せる」ことで教育とした。





スウェーデン時代は、私は「力」をため込んでいた。世界に対する知識と情報を蓄積していたが、いまは、それを放出している時期だ。日本は私にはそういう場所だともっと早く知れば、仙台や東京に過剰な期待をして呆れることもなかったろう。それもまた、知識だ。


「放電作業」は、自分を無にして周囲の求めに応じることだから、自分の手入れをしている余裕はないし、自分を愛するたのしみもないが、自分の放出したもので周囲が変革してゆくのを観ることは、そこに自分の存在意義を認める契機になる。






ヒトは、住むところによって、からだつきも、内臓の具合も、頭脳が学習する内容も、自意識の理想像も変遷しゆく。



いまは、それがむなしいとはおもわない。



スウェーデン時代とは違ういのちで生きている自分。



いまは自分を駆使しないことのみを悪としている。





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