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ブッダもこころいためけり
- 2012/03/13(Tue) -
「ブッダ」 という単語は 「目覚めきってしまった」 の意味を表す過去分詞であり、
ブッダがブッダたるゆえんは、完全に覚醒したからなのである。
(私は、過去分詞という単語を英語から知っている高校生には、その動詞の原形から、その音韻法則を
闡明した人物の1904年発行の分厚い辞書を見せながらこの話をすることで授業を 「脱線」 するのが常だ.
私を知る人は、ああ、あいつはそんなことで大学の教壇で話さないウサを晴らしているのか、と哂うだろうが.)


─────────


ブッダが、他の 「眠ったままの」 私たちとはことなり 「ブッダ」 となった契機が、
漢語で 「愛別離苦」 と書かれる、「愛する者との別れの苦しみ」 を認識したからだと言われる。

愛する者との別れがいかに苦しいかは、むしろ、私たちでもよく知っているといえるだろう。
俗人ならでは、そのような機縁は人生にいくらでもあることだろう。
そして、だれでも、その最大のものは、必ず人生で経験することだ、とも言えるだろう。
すなわち、親、あるいは、配偶者、または、恋人、もしくは、子ども、またはそれと同等の、同棲する動物、それらの死、
などの場合である。


恋人が背中を向けて行くのはそう大きな痛手ではないが、
配偶者や愛する者の死となると、人生にそう何度もあることではない。
もちろん人によっては、自分以外のあらゆる家族の死を見る苦痛を味わう人もいることだろう。
それらの死は、ひとつでも、十分すぎるのに。


─────────


生きて、動いていたものが急に動かなくなる。

生きて、動いていたときに私たちと共有していたものがすべて失われる。

もはや、そこに、いない、のである。

大事にしていたペンや自転車がなくなってもそれを哀惜する人はいるだるうが、
愛する者が動かなくなったときの気持ちはそれとはやはりちがう。



私たちは、一生、この苦しみを忘れることなく自らの死まで生きなくてはならないのである。

いつかは、その苦しみを味わう。

あるいは、その苦しみを味わうことになるという予感を常にあるいはふと抱いてなお生き続ける。


日常は 「眠っている」 私たちにも、

その苦しみは確かにある、真実にあるものなのである。

その苦しみの真実さは、
職場で褒められたり、試験に受かったり、肉体的な快感を味わったりしたときの感情と比べて、
確かに、深く、大きく、重く、そこに、必然と、ある。


それでも、
愛する者は、いまも、動き、まなざしを私たちに向けるだろう。





私たちは、まだ、人生についてなにもわかっていず、




目覚めてみなければわからない、




そんなことが

まだ

まだ

私たちにはいくつもある

それが、

真に目覚めて、見なければならない 現実 なのである。
(2011.10.23.記)



k

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