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終りくるまで
- 2011/01/10(Mon) -
人生には、悲しいことのみ多い

昔の聖賢が言ったとおりだ

それは、どんなものにも終わりがあり、消滅が来るからだ



人は、悲しいことばかりでも、

一つ愉しいことがあるとうれしい 悲しみを超えられる

一つの喜びをたいせつにする智恵を人は身につけられる


すべてのものが終わりを告げて消滅する

私自身も例外ではない  いや

栄華をきわめたあの人々も 栄誉を手をしたあの人々も 

本人が味わった喜びの感覚もまた消滅する

栄華は子孫に受け継がれるか 栄誉は後世に語り継がれるか

それが心遣りになるのだろうか 私にはわからない



私が心筋梗塞の発作で倒れたとき 深夜で病院を2軒3軒と断られ、呼吸がだんだんと苦しくなってきたとき

私は死を覚悟し、死を望み、救急隊に 「このまま安楽死させてくれないか」 と頼んだ


いや、そういえば、死は、その前すでに、初めてのことでなにがなにやらわからぬままに部屋で倒れて119番に電話したあと、

静かなビルのドアの床の冷たさに受け止められているときに実感した





愉しかった、な、



という感覚だったのである.



いい人にばかり巡り合った、立派な男を数多く知ったし、よい女に愛される喜びもいくつか知ったし、

勉強生活は愉しかったし、何人かの人には自分はしっかり生きた時期を見せることもできた.


だから、これで、すがすがしく逝ける、とおもって倒れていた.







私はそれから医療技術のおかげで蘇生し、


スウェーデンで夏休みの暇つぶしと日本語恋しさから翻訳した 『スウェーデン人』 という図書が世に出、


また、心臓をする前とは違った、小学生高学年の女の子と疑似父娘のような生活をする経験もした.



むろん、その間にもいやな経験も、というか、いやな経験ばかり続いた、といったほうがいい状態だったが、

とにかく自分の人生に新しいものを加えることができた

この6年ばかりのことである




この次、自分が死ぬときはどんな思いで死を迎えることになるのだろう

聞けば、死の間際には人は断末魔の叫び、というものを発するらしい


自分の死はどうなるのだろう


自分の人生は残りどうなるのだろう


残りとはどれくらいあるのだろう


どれだけ明日から自分は自分を駆使できるのだろう


年とって、社会から許容される行動も、自分ができる能力も、頭脳も、制限が厳しくなってきた

それでも、精神は停滞することは、たぶん、できはしないのだろう


たぶん、また急に、倒れて、死は訪問してくるのだ

あるいは、じわじわと苦痛を与える形で身体の一部の機能をむしばんでくるか


いずれにせよ、

その時に、前回の時のように 「すがすがしく」 死を出迎えられるかは、

あのころのように、懸命に生きて、激しく人を愛していないと無理なような気がする


そうでなければ・・・・・・・・・


mj


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