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人生の学習
- 2011/08/01(Mon) -
私は人生で何を学んできたのだろう、と初詣らしきものに散歩に出た今朝気づいた。
ソクラテス以来昔のギリシャ人は、「人はもっとも大事なことは子どもに教えるから、『どうやったら幸福になれるか』 ということは幸福な者は子どもに教えるはずだが、成功者の子どもは必ずしも成功者ではない、ゆえに、人生の知恵は学習されないのではないか」 という疑問を抱いてきた。

私が知っていることも、自分の好みで選択してきた読書や学校の範囲でのことだけなのだった。
そうなると、大方の人がそうなるだろう。自分が歩んで来た道で精いっぱい学習してきた。しかし、それは、人知、いや、真の知慧、というものからすれば、微々たる割合なのであろう。

それでも、私は、自分で読書し師を探して生きてきた。人によっては、その時々に適切な助言を与えてくれる親とか親戚とか教師とかがいたことであろう。肉親には、私は、あいにくそのような者がいなかっただけのことかもしれない。

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ウィル=スミスという俳優がいる。彼の映画は私ははずしたことがないのだが、先日、the pursuit of happiness という有名な映画を観て考え込んでしまった。確かに、子どもにちゃんとした教育や生活を与えられないことは悲しむべきことだ。それを達成できたことが幸福ということならば納得できる。しかし、それは、自明なことであろう。

幸福とは、裕福になることなのか。
私は自分がこれでよいと思ってきたが、いまいる沖縄の離島からちょっと買い物に東京に出る、ということは負担になる。たぶん、そんな人は沖縄にいないだろう。しかし、それができることが 「幸福」 なんだろうか、そうかもしれない、などと一瞬は立ち止まってしまう映画だった。


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元旦に外を歩くのに、私は革ジャン・ジーンズである。沖縄のこの離島で、革ジャンを着ているのは私くらいのものだ。仕事をしている県の職員は、ここではシャツも麻でなければならない、と言ったし、女子高生も、マフラー、あるいは、毛糸の帽子はかぶるくせに、セーターは着ない、手袋は絶対しない、と言う。沖縄らしさ、というものは、もはや生活基準となっているのだ。私は、そんな 「沖縄らしさ」 を学ぶべきなのか。革ジャンも、着てはいけない、と学習することさえもできない阿呆なのか。酒も、一人で飲むのはおかしいらしい。そんなことまで、従うべき 「知恵」 は何なのか。

私は、結婚生活の意義は知らないし、子どもをもつことの意義も1%さえもわかったと言えるのかどうかわからない。会社務めする苦労も知らないし、ご近所づきあいさえも知らない。先日、女友達が内地から送ってくれた乾燥芋を近所に配ったら、あちこちからお返しをされて、こんな世間智さえも半世紀生きるまで知らなかった自分に呆れた。


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深夜食堂』 という番組がある。私も先日ネットで知った。私は大学が高田馬場だったので、2駅離れた新宿と池袋には学生時代は歩いて遊びに行った。日によっては、池袋に歩いて行ってから新宿に行ったりしたのだから、若さというものはありがたい。その番組では、私が 「ここが自分の世界」 と思っていた新宿の夜景が映るので好きなのだ。無論、そこには、独りで飲む人々が映る。「沖縄では独りで飲んではいけない」 と私に言ったのは、私の行動を制限しようとした私の同僚だったから、彼の言葉は唾棄すべきとして、そのような発想を与えることがこの土地にあったのだとすれば、酒を飲むのにも土地によって禁忌があるとはなんとも狭い人生だ。どんな酒が出てもどんな食物が出ても受け入れる、という姿勢だけではだめなのか。

そういえば、私も人生で、毎朝 「タコウィンナー」 を焼いた日々があった。愛した女性の子どもの朝食のためにだ。彼も、もう大学に行くころか。
私はそんな、その時々のふれあいのためだけに生きてきてしまった。スウェーデンにいたころは、日本の友人に一切通信しなかった。スウェーデンで生きていく決意をしていたから、振り返らないつもりだったが、いま思えば、それも、私の不寛容の現れだったかもしれないのだ。


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先日、島の子どもが私と将棋をしようと駒と盤をもってきた。

私の人生は、自分の生きてきた分だけの知慧を使って生きようとする、将棋でたとえれば、香車だけで勝負をつけようとする行為なのかもしれない。金や、角も飛車も使える人もいるだろう。しかし、この人生は、この駒で私は決着をつけるしかないのであろう。
それがわかっただけでも価値ある 「初詣」 だった。


mu

(2011.1.1.記)



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