たとえば:───
どうして、勉強に来る島の子どもを私の世界基準で叱ると親がまず先に癇癪をおこして子どもを引き上げてしまうのか当初はいぶかしんだが、
私が血のつながらない子どもと暮らした時、
母親が必要ないと言っても、私は彼を校門まで送り迎えし、
彼が学校でへこんできたら、その理由に関係なく学校の管理に腹を立てたりした.
そんなことを思い出すと、
自分の子どもの悲しみはどんな理由でも許せない、と
事の当非に関係なく感情的になる島の親の反応もきわめて自然だと理解できる.
◆◇
どうして、私が職場や研究室で出会った若僧たちは、嘘を喧伝してまで私を陥れようとしたのか不思議だったが、
自分が50歳を過ぎて、仕事を探しに職安に行ったときに
どんな仕事でもそれに懸けようといちずになっている自分をみて、
彼らも、私よりも20年くらい早く、
自分が生きるためには他人をどう始末しようとも
これが自分の唯一の生きるよすがだと必死だったのだと、そしてそのために、自分を押さえる私のような、あらゆる点でかなわない(と周囲が言う)相手をどんな手をつかっても(あたかも無法都市の住人のように)排除しようとしたにすぎないのだと理解できる.
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どうして、あの教授はあんな非力なたかが修士課程学生に奨学金やいろいろな便宜をはかっていたのか疑問だったこともあったが、
自分が猫を多数飼うようになって、
すべての猫を腹いっぱいにさせられないし、エサの種類と量にも限りがあるため
産後か、野良との喧嘩で傷を負っているか、食欲がないか、などの相手の状態に鑑み
どの猫にどんなエサをいつ与えるかにランク付けをするようになっている自分をみて
そしてその根拠が、単純に自分の思いこみと好悪の感情にすぎないことを認識し、
人の組織集団の中で
他者に序列をつけるのはたのしいし、この序列のほうが自分には心地よいから、
権限のある上の地位のだれが下位のだれを取り上げようとも他者がとやかく言うことは意味がないことだとわかるようになった.
・・・・・・・・・・というような例からもわかるように、
人は、経験しなければわからないことが人生にはたくさんあるものなのだ.
だから、私は、お年寄りの話は好きだ
年輩者には一様に無条件に敬意をはらう
(無論、すぐれた若輩者もいる.しかし、若いものすべてがそうではない.
だが、年輩者の知は、すべて、私たちの人生知を越えている.
それらは、私たちが、「これから」 知ることになる事柄だからだ.)
年齢を重ねた人々、それは、
ただそれだけで、人類の財産のはずなのだ・・・・・・