開国
- 2016/03/26(Sat) -
日本は明治維新をもって開国したと言われている。外国と交渉をもったのは何も明治になってからではないが、いわゆる欧米諸国の文化に接することで、それまでと比べて革新的変化を遂げたという意味で、その時点をもって「開国」と呼ばれているのであろう。
しかし、いまの日本人と世界の諸国民との相互理解度をみるに、果たして、日本人は真に世界人になったと言えるのか。
まず、日本が知るべき「世界」とは、現在の日本の同盟国の如くみなされているアメリカであってはならないであろう。
なぜなら、アメリカには、我が国にさえ及ぶ長さの文化伝統がないからである。このことはヨーロッパ諸国においては十分に認識されており、優秀なヨーロッパの学生でアメリカに行って就職したいと考える者は極めて少ない事実にも現れている。アメリカから学ぶものは、マクドナルド・ハンバーガーと経営戦略の手法のみ、と明言する国民もいる。
日本が学ぶべきは、尊ぶべき文化伝統をもっている国、すなわち、まず、ギリシャ・ローマなどの共通のふるさとをもつヨーロッパ諸国である。また、それとは大いに異なるもやはり独自の文化をもつ中近東諸国も、最古の文明発祥の地であるとともに、ローマとならぶ世界帝国ペルシャの伝統を有する。そして、ギリシャとならぶ人類の精神的遺産をもつインド。これらに続いて、いまだ日本人には別世界のアフリカ諸国。
これらの国々の民と日本人がどの点において違うというのか。ギリシャ文化を尊ぶからといっても、ヨーロッパの諸国民といっても、いまや日本人と大差ないだろう、彼らがもっている文明は自分たちももっている、いや、彼らにないものも日本には豊かだ、と考えるのが大方の日本人であろうが、その無知に我らは早々に気づくべきなのだ。
数例を挙げよう。日本では、路上や交通機関の中で自分の子どもを叱り飛ばしている母親がよく見られる。ヨーロッパのある国では、そのような母親は皆無である。ぐずって泣いている自分の子どもの前に同じ目線でしゃがみこんで静かに語りかける母親がその国にはいるばかりだ。その国では、いわゆる家庭内暴力もまた消滅に近い。他者に苦痛を与えることが極端に嫌われ、そのような母親、そのような父親が出来上がるのである。
日本のいわゆる「セックス産業」がどこの国にもあると思ってはならない。セックス産業が皆無の国もある。そこでは、では、むしろ、「性教育」として、男女性器の構造や性交の仕組みなどが学校で教えられる。日本人は、それらの「教材ビデオ」さえ、愉悦の対象として追い買い探す国民として知られている。憐れむべきは日本人が生まれてこのかた教え込まれた性意識なのである。ある国では、独身女性が男性を部屋に招いても、そこになんらの「誘い」も込められていないのが常識だ。そこで恥ずべき行為を犯すのは我らの同朋ばかりである。  日本人の身体は惰弱で、欧米人のそれが逞しく見えるのは人種的差異によるものと考えているのが大方の日本人であろうが、それも、欧米人がいかに身体を鍛えることを常識視しているかを知れば、自分たちの怠け心が身体を形成していると日本人は気づくであろう。ジム通いは日本では多分にスタイル保持・肥満防止などの理由から行われているが、ヨーロッパでは、ジム通いは活動的に日々生きるために必須のものとみなされている。ために、ジムには、中学生から老人まで集合して日々筋力と心肺機能を鍛えている。日本の老人が日陰者的な理由の一つに、自分のことを自分の身体でまかなえない弱さがある。
近年、日本でも常識化している「男女平等・機会均等」とはなんだろう。ヨーロッパで発達したその考えと日本の現実とは大いに趣が異なっている。真の「男女平等」とは、男は男らしく、女は女らしく、その上での対等関係、なのである。男と平等だからと、ことさらに肩肘張って男に噛み付くインテリ女史は、男女平等のはきちがえの産物だ。機会均等も、無論、バスの運転手が女であってもよく、保育士が男であってもよいわけであるが、その上で、女性がしたほうがより適切な職業、男性がしたほうがより効果的な職業、というものがあるのも事実である。それをわきまえて初めて両性相互の尊敬が生まれるべきものなのである。
日本では、いまやほとんどの高校生が「大学」へ進学することを当たり前視している。しかし、ヨーロッパでは「大学」は、学問をして、さらに自分の就職適性を高めようとする者か、研究を志す者だけが住む世界である。その期間、親に依存して生きながら、非生産的なことにのみ従事しているような大学生が生きる場所はないのが世界の大学なのだ。
日本人がこのような奇矯な国民となってしまいながらも世界を覗き見、世界で活動することを望見するなら、次世代の若い日本人たちは何をすべきであろうか。
外国語の学習、これは自明のことである。そして、日本の学校でまず教えられる外国語である英語の学習についてもこれは妥当である。なぜなら、英語は世界の大部分の言語であるインド・ヨーロッパ語族の中でも最も進化した言語であるから、英語を学習することで世界の言語の扉を開けるのは理にかなう。また、仮に学校で英語になじめぬ者も、落胆するには値しない。英語がだめでもドイツ語やスペイン語が自分に合う、ということもある。言語は人と同じで、個人によって合う・合わないがあるものなのだ。
ただし、英語学習でも、注意するべきは、昨今の会話至上主義である。その会話とは、買い物や道の尋ね方など、アメリカならば、新聞も読めぬような者でもできるレベルの会話能力を練習する「学校」が日本に雨後の筍のようにできていることだ。しかも、その教師の故国での学歴・教養は一切保障されず、時には、フィリピン人やロシア人が英語教師だったりするのも、日本ならでは、である。
外国語は、他国民とともに有意義な時間をもつために学ぶのである。相手に尊敬の念を抱かせるような言い回しができ、込み入った生活・仕事上の問題などを議論でき、人の心を動かすような手紙やメールを書くことができ、外国の優れた文章を読んで異文化の教養を身につけることができるためには、まず、日本の学校でしているような、読解と作文の練習を着実にすることだ。会話能力は、その国やそれが必要な状況に置かれれば自然と急速に伸長するものなのである。
しかし、真に世界人となるには、外国語能力などよりももっと大きなことを必要とする。
それは、偽りなく生きることができる能力である。「偽りなく」、このことがいまの日本の若者で真にできる者がどのくらいの割合でいることだろう。気に入らない上司や同僚の悪口を陰で言うばかりか、時には虚偽を喧伝しても他者を陥れようとする者が、ビジネスの場でもアカデミズムの場でも幅をきかせているのもまた日本的風景だ。どうして日本の若者はこのように「嘘つき」になってしまったのか。年長者の知見を尊ぶ風潮の消滅、口先だけで周囲を動かせるとの誤った過信、またそれにつきあい軽挙妄動する組織。真に実力ある者ならば、他者を排斥したり陥れたりする必要がない。自分の内面に自信のない者は、固着した組織力に依存し、未知の世界に踏み出すことはしない。
日本の次世代を担う者たちよ、ほんとうの意味で、心身頭脳を鍛え、自らを優れた実存にせよ。そして、自分および自分の周囲にない価値をもつ世界へと雄飛せよ。世界から学び、そして、それをまた我が国に持ち帰り、日本と日本人をより尊ばれるべき存在へと変貌させよ。それが成ったとき、日本の真の意味での開国がなされるのだから。


s

 
(10.8.26.記)
この記事のURL | 日本という国 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
<<一流半の俗物が多すぎるのが日本の脆弱さ | メイン | 序列 311>>
コメント
コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する


▲ top
トラックバック
トラックバックURL
→http://odjinn.blog69.fc2.com/tb.php/473-1844300a
| メイン |