死の自覚 (K29同窓生へ)
- 2010/04/21(Wed) -
昔の友たちよ、私たちの友の中には、既にこの世にいないものもある.

諸君たちは、死を間近に感じたことがあるか.半世紀生きたから、そいういう経験もあるかもしれぬ.


無論、生きていれば、ひやっとする瞬間というものは幾度もあるだろう.


海に遊びに行って溺れそうになった時とか、クルマを運転していて衝突を感じた時とか、・・・である.


私も、たとえば、大学で器械体操をしていて、鉄棒の演技中で手が離れてマットに飛んでいった時とか、

その後、二十代で急進的な社会人山岳会に入って、ノーザイルで岩壁に張り付いていた時とかには、

死ぬかもな、とは、光よりも早く脳裡に意識が走った.



しかし、そういったのは、死の意識が伴わない.

死ぬ、ということがはっきりと眼前に確かに意識されていなければ、「死を思った」 とは言えないだろう.



私は、そうしたことが人生で、2回あった.


一度は、二十代に、上記の山岳会で谷川岳に行った折、私だけが雪の中に滑落して、捜索もされずにいた間である.


悲しかった.  ただ、それだけだった.


もう一度は、5年前に心筋梗塞の発作で倒れたときである.


携帯電話で救急車に居場所を告げて倒れていたあと、搬送される間はまだどこかに余裕があった.


しかし、病院をたらい回しにされているうちに、いよいよ苦しみが強まり、

「もう、安楽死させてくれないか」 と救急隊員に言った時には、

人生に乾杯して逝こう、という気になった.


だが、人によると、死ぬ間際というのは、そんなものではないそうだ.


死ぬ間際の心身の苦しみは 「断末魔」 という単語があるように、相当なものだそうだ.



―――――― どう思う、昔の友よ



数ヶ月前、私がエサをやっていた野良猫の子どもが家の前で血を吐いていた.

クルマに轢かれたか、なにか害虫除けの毒エサを食べたか

私は、それから、その、もはや歩けぬ子猫を1か月屋内で育てた.


最後に息を引きとる時、子猫は、いっそう、いかにも苦しそうにあがいて、そうして、脱力した.





死はいまもそこにある.


私たちは、避け得ないし、また、それについて語ることもできない.


厳粛、という言葉では足りぬ


死は、ただ、いまも、そこにある



k



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コメント
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K29への同窓生へと、語りかけてくれているので書きます。

6年ほどまえ、身体に癌が見つかり、自分の命の有限性をはっきり自覚した。告知の日、今でも目に映る景色の立体感がなくなった不思議な感覚を覚えている。

手術して以後、現出する言動は変わらないが、どこかいつ、今の世の中からいなくなっても、それはどれでしょうがないと思う気持ちになった。

葬式は・・・自分の死をまわりの人に告知する上でしてもらおう。
ただし、無宗教にして、BGMとしてひらすら『パルジファル』第一幕の前奏曲を流してもらおう。

遺骨は墓は必要なく、湘南の海に散骨してもらう。

そして、これだけのことを残った人にやってもらうだけの金銭は御礼として残したいと思っている。
2010/09/20 15:40  | URL | 最近、アスペルガー症候群だと気づいたかつてのクラスメート #-[ 編集] |  ▲ top

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