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恣意的教育者にならず
- 2009/11/19(Thu) -
(本記事の一部は、2008年8月6日、ある女子高生の訪問を受けた後に書かれた)

私は、スウェーデンにいたときに、ドイツ人の教授から、博士号をとるのに時間のかかるスウェーデンよりも、日本でとってきてスウェーデンで早々に教師になったほうが早い、と言われて日本に戻ってきた。

私が博士論文を出そうとしたのは、修士を卒業して、私をスウェーデンに送ってくれた新宿・高田馬場の大学ではなくて、杜の都・仙台にある国立大学だった。そこの教授が私に 「来い」 と言ったからだ。

理系の学問では、文系の学問よりも博士号を取るのは簡単だ、と言われるのを聞いたことがあるが、ほんとうなのだろうか、信じがたい。だが、たしかに、たとえば、カエルが専門の教授の下でウミガメの研究をしていたら、自分がすることが全てで、「指導教授」 は細かなところまで介入指示できないのかもしれない。

しかし、文系の学問では、指導教授とほぼ同じ分野・文献を扱うのが通例のようだ。特に、私のような古典学徒は。その結果、私の博士論文の一部が指導教授の学会発表に使用されたりもした。同じ教室で毎日議論して勉強し合っているのだから、「私」 が書いたものでも、指導教授の考えを聞いたあとの産物なので、「権利」 はどっちにあるとも言えない。ただ、私がそれを表と文章にまとめただけだ。だから、私は、指導教授の行為に違和感はなかった。ただ、その結果、博士論文を彼の下で出すのは止めただけだ。彼は 「ごめんね、使っちゃった」 と私に言ったが、別に詫びられるようなことではなかった。

私の本当の知性は、そのようにだれが述べてもよいようなところにありはしない。世界で私しか言えないこと、そしてそのゆえに、まだ他人がじゅうぶんには理解できないようなことに、それはあるのだから。


◇◆◇◆◇



文系の学問の 「論文指導」 も、多分に、恣意的になる。「明らかな誤り」 というより、「このほうがよりよい」 と指導教授が思った方向に指導学生は引かれることになる。それは、私がいま、島の子どもが推薦で大学入学をしようとして作文をもってくるのだが、それをなおしてやる過程で私が痛感していることだ。

子どもたちの作文は、それがその子の文章能力なら、そのままいかせてやればよいのだが、形容句があったほうがいい、とか、もっと具体的に書いたほうがいい、とか、主語が途中で代わっているだろう、とか、ここではこの漢字は使わないほうがいい、とかつい言ってしまう。内気な女の子だと、気づいたら涙ぐみそうになっていたりするので、自分がかつてつきあい方に苦労した指導教授と自分が同じような存在になっていることがやっとわかった。


勉強を教える、後から来る者を指導する、ということはどういうことなのだろう。できるなら、数学を教えるように割り切った関係でいたい。しかし、私は、外国語を教えたり、文章をなおしてやることが多い人間なので、そこに、どうしても (そう言いたくはないが) 「恣意的」 なものが入り込みやすく、それを戒めることの連続になる。


自分をたえず監視しているのが大事なのだろう、人にものを教える立場の者は。



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