子猫の死骸が教えること
- 2016/03/11(Fri) -
人生の喜びは、自分の安寧充足か自分が愛する者が幸福でいるところを見ることができることだろう.逆に、人生の苦しみは、自分が愛するものを喪失することだろう.人によってそれが地位や名誉や財産や他者であったりするだけだ.自分が愛するものがいなくなっても、いまの時代、遠距離でも相手と心が通じ合っていればどんな手段でも日々刻々交歓が可能だ.人によっては、愛するものが他国に移動することで喪失を感じることもあろうが、その場合は、心のつながりも失われると思えたからだろう.ゆえに、愛するものを喪失する、ということは、離別か死別の場合以外にない.死別でも、寿命が尽きて静かに死ぬ時、それでも、それを愛する者たちは愛する者の喪失に苦しむことだろう.ましてや、愛するものの喪失が、自分のなんらかの判断の過ちにも起因していると意識してしまう時、人の苦しみは最大のものになるだろう.恋人との離別も、自分の行動・言葉の不適切がどうしても思い返される時、人はその喪失に苦しむものだ.

愛するものが身近にいたときのあの胸ふくらむおもいは、きっと、青春の盛りの恋人に対する時も、年をとって子どもや孫のような存在に対する時も、ともに暮らす他の生物に対する時も同じだ.あの、心の底から力が湧いてくるような感覚、それこそが、「愛」 が、何ものにもまさって価値あるものとされるゆえんだろう.そして、その存在が急に失われたとき、人は苦を感じざるを得ない.

若いころの私は、「観察する」 ことの重要さを体得した.重要さを体得した、ということで、それが可能、得意にもなった.生きている人、過去の文献の中だけの人、その優れていたところはなんなのかを探り、把握し、自分の生き方に生かす、ということだ.もっとも、私が感銘を受けた人々にもそれなりの偏りがあったことだろうが.

そうして私は、過去の、また今を生きる人々の優れた精神にふれて自分の内面を豊かにすることに努めた.その一方で、私は、自分を表現することには無頓着だった.人によっては、人前で気のきいたセリフや動作をとれることが人に愛され尊ばれることだと思い込んでいる者もいるが、私は、自分の内面が豊かになれば、他者には無愛想・無反応で構わないという価値基準を自然に築いてきてしまった.私はエンタテナーに価値は認めなかった.私が尊んだ人々は、対外的には木偶、と言ってよい存在ばかりだった.ソクラテス然り、アインシュタイン然り、そして、イエスもまた然り.たぶん、それは、半世紀生きた今も、また私が死ぬまで変わらない.

しかし、数日前、愛するものを失って、ほんとうに気づかされたことがあった.私は、観察力と同時に、判断力も、私には必要なことだったのに、それを鍛えることを等閑に付していた、と.判断力 ―― しかし、最適切な判断力を具現したニンゲンというものは存在するのか.私が尊敬する恩師にしても、それは、100パーセントではないだろう.人間的存在である以上、身体は1つしかない以上、時間と場所に拘束される存在である以上、完璧な判断力を具現できる人はいはしない.ましてや、大多数の人々の判断力は、「ことごとくが誤り」 と言ってもよいだろう.子どもにそんな説教をしてよいとおもっているのか、子どもにそんな教育を授けてよいとおもっているのか、部下にそんな対応をしてよいとおもっているのか、隣人にそんな対応をとってよいとおもっているのか、患者にそんな診察をしてよいとおもっているのか、生徒にそんなことを指示してよいとおもっているのか、恋人にそんな言葉を吐いてほんとうによいとおもっているのか・・・・・・世界は、過ちに満ちていて、むしろ、誤謬ばかりによって構築されているのがニンゲンの世界だとおもってもよいだろう.ニンゲンの世界で真実なのは、数学の公理体系とか、僅かに知られてきた自然の仕組みに関する知識とか、おぼろげにたどるしかない過去の叡智への理解とかにすぎず、そのおかげで、ニンゲンは、病で死滅せず、秩序と文化伝承を尊び、いまだに地上に存続していられるにすぎなく、その実際の個々の生活は、過去の叡智を知る大学者といえども妻と学生の間で過誤を重ね、自分と他者を傷つけ損なうことの連続なのが現実だろう.

このような、過誤に満ちた生活の中で、私たちニンゲンはどれだけ、「幸せ」 に近づけるのだろう.いや、それは、地位と財産を築けば、たいていの 「幸せ」 は手に入る、だから、よい就職が大事だよ、というだれの親でも言いそうなことに行きついてしまうのか.

過ちなく生きたい、しかし、それはニンゲンである以上、だれにも、私にもできないことなのだろうか.限られた知恵と限られた経験をもって私たちは生きて判断し、道を選ぶ.そこに、ニンゲン的愚の大因である 「真正ではない感情」 というものも往々にして入り込む.他者に対する怒りや妬みや恨みなど.限られた知見に加えてそのようなものにも曇らされて、私たちは、何をするにも最適切な判断などできはしない.
それでも、私たちは、愛するものをもっている.その幸福を願っている.そのためには、愚かなニンゲンといっても、ものを考えずにはいられない.子猫1匹を複数の獣医も飼い主も守れないのに、母猫はそれまでそれを含む4匹の子を野良猫状態のまま養育してきた.ニンゲン的知恵など、野生動物の行動にも及ばないのか.それでも、私たちニンゲンは考えずにはいられない.考えて、考えて、過ちを極力排除し、できるだけ少しでも、正しく適切な道に近づいて選択するようにしか生きられない.とても困難で、ある意味、絶望的でもあるが、それが、ニンゲンとして生きることにほかならないだろう.

(本記事は2009年10月29日に書かれた.)





昨夜、知人の飼っていた動物が亡くなった.


私も沖縄に住んで5年の間に5匹の猫の死にあってきた.


埋葬を重ねるにつれて、生は長さの問題ではなく、


死者は生者の中に生き続け、その生者を尊ぶ他者の中にもいのちが移転し、


さらに、死者が生前に知った生き物としての快苦はどれも真実の存在の証で、


たとえば、ある刹那に感じた他の種の生物とのふれあいの温かさといったものも、一瞬だが永遠の真実性をもつ、


ということがわかってきた.




生者よ、あなたに愛された死者を喜べ.


喪失の苦しみを超えて、精神でともに生きる境にすすめ.




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