言語感覚、すなわち生存感覚
- 2009/12/07(Mon) -
私が Gillis Herlitz Svenskar を日本語訳したのは、ウプサラでの夏休みの暇つぶしからだった。




私は、所属した日本の大学 (修士課程が早稲田大学、博士課程が東北大学) にも、また東京の企業にも

そこにずっと居続けたい、と願ったことはないが、

スウェーデンのウプサラ大学の研究室は生涯の場所になることを願った。

論文を出しに一時帰国したつもりの仙台で身体をこわしたが、

そこでは、思いがけない、もっと大きな体験をした。

私は、日本に帰ってきたら、なにか、頭の前のあたりが眠り込んでしまったような感覚に陥ったのだ。



それが、仙台という、旧伊達藩の土地にある旧帝大の研究室がもたらしたものならいいが、

どうやら、そうではなく、

スウェーデンで、スウェーデン語・ドイツ語・ロシア語・ラテン語・英語を使い分けていた脳が

急に、日本語だけで、脱力してラクに生活するようになった結果、

頭脳が休眠状態にはいってしまったかのようで、

つまり、何を読んでも、何を考えてもぼんやりした霧が脳にかかったようで、

まるで、腰まで水につかった状態で駆け足をしているときのようなもどかしさを感じた。

それは、以前の人生では未体験の感覚だった。





そして、きょう、字幕のない外国映画を久しぶりに観て、それを理解しようと精神が覚醒したのを感じ、

外国で暮らすということは、登山をすることにも似た (私は二十代に社会人山岳会に所属していた)

周囲の環境すべてと対峙するような自由と興奮と

すべてが自分の力次第、という喜びが生活の根底にあるものなのだと思い出し、

母国語以外の言語を理解するということは、あらゆる感性を全開にしないといけない、

ということもまた思い出したのだった。


さあ、これから、自分自身を覚醒させ続けるために、私はどうしようか。



m
(筆者2007年夏撮影) 


(09.6.22.記・改)


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