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幸せ、とは
- 2014/05/14(Wed) -
私のこのような文章でも読んでくださる人がいるようで
年若い人から、私は私の幸せを求めるべきだ、というお言葉をいただいた。


私が、ここで、「・・・のような家庭は幸福だ」 とよく書くからだろう。


ドストエフスキーだったか、「幸福な家庭は・・・だが、不幸な家庭は~だ」 という言葉があったとおもう。
「・・・」 と 「~」 にはどちらかに 「さまざま」 どちらかに 「同一」 という言葉がはいったはずだ。
いまの私はそのどちらがどっちだったかは覚えていない。
私が言えることは、幸福には、先の若い人の言のように、「さまざま」 なかたちがありそうだが、
不幸は、その形態はさまざまでも、原因は、「ニンゲンの愚かさ」 に基づくという点で同一、だと思える。


私は、しかし、幸福は、追い求めるものではないように思うのだ。


私は、永住したいと願っていたスウェーデンから、日本のある一人の女性の求めに応じて戻ってきたが、
結局、その相手とも続かず、日本での目的を失った。


そして、日本で身体をこわしてスウェーデンに戻れず、さりとて日本でも論文ができず、
一時、企業の雇われ頭脳として働いたのち、
いま、南の離島の若者に好き放題しゃべることで日々の糊口をしのいでいる。


そんな私が言うのもおこがましいが、幸せは、求めるものではないのだ。



私は、私をスウェーデンから呼び戻したその日本のかつての恋人と悩んでいたときも、
身体をこわして仙台という土地で無為のまま病院で過ごしていたときも
東京で、私の頭脳を利用しようとしていた会社に使われていたときも
ずっと、私は、あかるい蒼穹を見上げつつ幸せであったのだ。


なぜなら、私は、幸せな生き方しかしない、から。


私はこうして生きてきた。そして、これからも、どこに行くかわからぬが、生きていく。





世界をみつめつつ



w




(本記事は2009年2月21日に書かれた.)


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