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一期・学習
- 2017/08/07(Mon) -
休日午前のマーケットのレジで、私の前に2人の子ども連れの家族を見た。


私は人生で一度も結婚はしなかったが、子どものいる生活を2度経験したので、
「家族の幸せ」 というものを知っている。あれが、生きる幸せ、であろう。
もっとも、それらの子どもは、私とは血がつながっていなかったが、
血のつながりが必須なものではないことはスウェーデンでじゅうぶん見ていたので、
私は何ら心配していなかった。

しかし、日本人の悲しいニュースしかしらない親族たちが、私たちの 「幸せ」 を理解しなかった。



◇◆◇◆◇



私は、学生時代も、社会人になっていた時期も、スウェーデンでも、それなりに恋人は幾人かはいたが
そのだれとも結婚しなかった理由の大きな1つが
子ども時代に、父親が私の母親を殴打するのを見ていたからだろうとおもう。
家庭イコール悲劇、という連想が脳裏から離れない。
あの光景は、いまも恐ろしく、顔面に青あざをつくった母親の痛みはいまも私の苦痛だ。
当時小学低学年だった私は、わけのわからぬ弟をはげまし、
父親にとりあえず声をかけて、深夜の町をスーツケースをもって隣町へ歩く母親を探してまわった。



先の子どもとその母親との生活でその苦痛の記憶が打ち消されそうになったころ、
しかし、その生活も終わりを告げざるを得なくなった。
私は、家庭の幸福の味を知っただけで、その中にい続けることなく終わった。



◇◆◇◆◇



父親は、そうしたDV行為を子どもの私にいさめられたことがあってから
いっさい学生期の私に親としての経済的扶助をしなくなった。
私には大学の学資は一切払わず、弟だけが、大学卒業までスネをかじり車の免許までとらせてもらった。


私は、大学に入るため家を出てから30年以上、実家で正月を迎えたことは片手の指ほどもない。
あるのは、スウェーデンから帰国して挨拶に顔を出したときくらいだったろう。
若いころに外国に憧れたと言っていた父親は、私の海外修行に何の関心も示さなかった。



◇◆◇◆◇



周囲の取り決めで私と訣れることになった血のつながらない子どもは、私の胸を涙で熱くぬらした。



かたや、先日逝った私の父親は、帰国した私が差し出した握手を 「よせ」 と拒否した。



血のつながり、とは何か意味があるのか。



私にすれば、上記の子ども(男子)や、その後、週末親をしていたある少女のほうが
だれよりも私という人間を精神の中にとどめたようにおもう。
そして、何人かの、予備校や塾で教え、手をやかされた若者たち。また、昔の恋人たちも。




「年をとって家族がいないと不安だろう」 という者がいるが、
家族がいて、寝たきりの自分にアイスクリームを買ってきてもらうことなど、私は幸せとは思わない。



自分の気持ちが確かに伝わる人間をもっていること、
それが、他人の子どもになっても、それが、他人の教え子になっても、それが、他人の家で暮らしても、
私の精神を記憶する者、それこそが生きる財産だ。


◇◆◇◆◇


人間がもっと広く愛し合えるようになればよい。他者への愛情が無辺に広がることが排斥の対象にならぬ世界になるとよい。


f


(本記事は2009年1月24日に書かれた.)
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2009/01/26 02:58  | | #[ 編集] |  ▲ top


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