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- 2016/10/08(Sat) -
犬や猫などのペット動物の生涯は、寝て・動いて・食べて・寝て、の繰り返しだ.



ニンゲンがそのような人生を強要されたら、半分監禁と同じで、刑罰に近くなる.

ふつうは、そのような生は御免だろう. いや、引き籠りの人々はそのような生を選択したことになるのだろうか.

いや、高齢になれば、だれでもそのような人生を送ることになるのか.



高齢になると、寝て食べて動いてまた寝る、という犬や猫と同じ生を生きることになるのだとすれば、


それ以前の私たちの生はそれとどれだけ異なるというのだろうか.





ノーベル賞をとったり、苦しんでいる人々を救う活動に挺身したり、

人々の安寧のための活動に精進したり、人類の幸福を増大させるような技能を伸長させたり、


そのような活動に従事して努力するのが我々ニンゲンの人生だというのだろうか.




私の場合、勉強も暇つぶしだった.猫がおもちゃにじゃれるように、気晴らしに勉強しただけだった.


それで、海外に派遣されたりしたが、所詮は、自分の愉しみのための活動だったから、


ほどほどで、もういいか、とおもってやめてしまった.


私のようでなく、学問を「道を追求する」というような神聖な目的で行っていた者たちや、

よりよい生活を保障する職業に就くために勉強生活を行っていた人々は、


いまも学問世界にいて、人類のかろうじての進歩を支えているということになるのだろう.




自分の意志で生きている、というのは、極めて過酷な状況下で生きる人々はみな抱かざるを得ない感情だろう.

自殺を意志するか迷い続けている人々にも、生きる選択は意志的なものになるのだろう.

無論、人類に貢献する活動をしようと意志している人々の生もまた.




では、きょうも寝て食べて動いて寝るだけの動物たちの多くは生きていないということになるのだろうか.


意志的に生きているグループのニンゲンたちが、真に生きている、と言えるだけなのだろうか.





食用にされる家畜たちの生はいざ知らず、犬や猫たちの生、大部分の野生の生命は、

生きる意志をもたない、有意義なこと何も無し、の生なのだろうか.



生きるという意味において、ノーベル賞受賞者と我が家の猫と違いがあると私たちは断定してよいものなのだろうか.

かつて、死んだ我が家の猫を助手席に載せて埋葬場所へ向かうとき、クルマのラジオで我が国のとある人間国宝の人物の死を報じていたのを聞いた時の私の感情は、愛する者の死のほうが激甚な悲しみで、その生の損失も大きい故に、その生もまた大きかった、という確かな悟りを生んだ.


生命とは、奇妙なものだ.数分前までは動いて息をしていたものが、もう、動かず息もしなくなる.ニンゲンが生を創造できない以上、生きるということ自体が、奇跡で尊厳ある事象なのだと言うべきだろう.





我が家の猫たちは、きょうも、尊厳を各所で示しつつ、寝て、食べて、動いて、寝ている.


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