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他者と
- 2016/04/28(Thu) -
人と人は、育った環境も頭脳も気分も主義も違うのだから、わかり合えるつきあいなどできるはずがない、という言説がある。真理だろう。私も、親や昔の恋人たちの内面をほんとうにわかってはいなかったと言うしかない。
だから、学校や職場など、その人の属する社会集団の中でも、わかり合える他者とのつきあいなどを期待してはならず、周囲と楽しく調和して勉強や仕事をすることを期待してはならない、ということになる。

しかし、セックスの最中の人々とか、政治的熱狂に包まれた集団のように、一致調和した人と人もいるだろう、という考えもあるかもしれないが、それは、自分たちとは別の何か狂熱の対象を共有していることによる一体感であり、相互に人として理解し合ってのことではない。いや、スポーツであれば勝利、会社であれば仕事の成功、というように、自分たち相互以外の共有価値の実現を目指して一致調和する人と人、ということなら、むしろ、それは、人間的相互無理解の無知を超えた、有価値な人間的営みと言えるかもしれない。ならば、それ以外には、人が他者とともに生活してゆく道はないということなのか。

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我が家の猫たちが、迷い込んだ1匹のゴキブリを数頭で囲んで狩りをして騒いでいる。私の靴なども蹴散らし放題だ。その姿は、ニンゲンと同じように、相互とは別の狂熱の対象によって一致調和して動いているように見える。
その中で、我関せずと眠り続けている者もいる。そうこうしているうちに、その1匹の虫が動かなくなったところで、一致していた集団はなくなり、各自、眠りにつく者、屋上に新しい対象を探しに行く者、食事場に行く者と、別々の行動に移った。

人は、生きるために、ひいては、自分の利益のために、他者との一致調和を常に求めざるを得ないように見える。一方、猫どもは、常に求めるものなどはもっていない。空腹時の食べ物、眠い時の寝場所、排泄したい時の清潔なトイレなどは求めるが、常にそれを念頭のおいて生きてはいない。猫にも、親子きょうだい間での親愛の情というものはある。しかし、「わかり合おう」 という意思はない。「わかり合えないんだから、相手に期待できない」 と考えて諦め落胆しているようにも見えない。そうなると、ニンゲンの悟性作用とは、害にして益なるところ何もないかのようにもおもえる・・・、という思考をする私のこの文章も、ニンゲン的愚を排除しようとしてはいるが、何か有益なところに到達できはしない。マイナスばかり気をつけても、プラスの場所がわからない。いや、何かプラスを求めようとする意思そのものがマイナスなのだ。

猫どもは、あらかた眠りにおちた。私も日の出まで眠る。これくらいは彼ら同様に確かにできそうだ。

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