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enkelhet
- 2019/04/11(Thu) -
毛者たちを観ていると、



大量にある通常食と、少量のたまの好物とでは、必ず好物にとびつくのがわかる.



美味いものを食べてまだ空腹でいるほうが、美味くないもので飽食するよりもよいのであろう.



同様に、自分がしたいことをするのを優先して、好ましくないことにはやむを得ない状況以外は身をさらさない.






こんな同棲者を観ているから、



私はますます身勝手なジジイになってゆくのである.



       090310_1628~01

skrivit på 20160515
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崇高な彼女
- 2019/04/09(Tue) -
(10.6.16.記)


1か月ほど前には、わが家におなかの大きいメス猫が3匹いた.

1匹めを、考えに考えた末に避妊手術した.


ぺったんこになったおなかで帰ってきた彼女は、もともと親もわからなかったのだが、これで子ももてなくなった.
これからは、私ひとりが彼女の家族だ.


翌日もう1匹を獣医に連れていこうとしたら、ふっつりと姿を消した.そして、そのまま、いまも見なくなった.


そして、3匹めをどうするかためらっていたところ、彼女も姿を消した.そして、ぺったんこのおなかで戻ってきた.

その彼女は、えさをよく食べるようになったが、子猫がそばにいるようには見えなかったので、死産だったか
流産したのか、かわいそうに、と思っていたが、

きょう、子猫4匹を連れて、ベランダに戻ってきた.

その母猫も、そのまた母猫も、私のところで、この3年の間に出産してきた.これで、4代目ができたことになる.


よく、野良猫の避妊手術は必須という意見に出会う.

しかし、猫も、街猫として土地に住む権利をもつはずだ.

食事とトイレをヒトが始末してやれば、世界遺産の、人口と猫の数が拮抗する西ヨーロッパの歴史的な街のように、
ヒトも猫もすみやすい土地になるのではないか.



私のとなりには、私が妊娠中にもかかわらず手術した猫が寝ている.彼女の孤独はどれほどだろう.


栗之丞



私のところの猫の家系は、孫は自分の祖母の猫を知らないようだが、二代目は自分の母も子どもたちも知っているようだ.
娘たちとはいまでもならんで日向ぼっこしている.猫にも、家族意識があるのだ.


sumi&ann


子どもが自分でエサをもらいに動けるまでは、どの母親も、自分は一切たべずに、運べるエサはくわえて巣に運んだ.

牛生肉なども、自分は絶対に食べず、5回でも、6回でも、家を出て、ベランダを下り、木に登り、隣の廃ビルの下の
子猫のところまで、食べ物を運ぶのである.
それは、初代も、二代目もそうだった.そして、いまの母親もそうするだろう.

自分は食べず、授乳しているので、やせて筋ばっても、母猫は子猫へとエサを運ぶ.



その姿は、どんな兵士にも劣らず勇壮で、


どんな修行者にも劣らず忍耐強く、


どんなメロスにも劣らず断固とした意志が貫いてい、


どんな神さえも道を譲るであろう神々しさをたたえていた.



二代目も三代目も、残ったのはメス1匹きりだったから、いまの赤ん坊4匹もいずれは旅立つことだろう.

しかし、母の務めはそのようなことにかかわりをもたない.


彼女は、ただ、 貫徹する だけなのだ.

ann



(当の子猫の写真は後日掲載)



anns
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文化と風土と感情と
- 2019/04/08(Mon) -
土地には、そこならではの気候と、地形的景観と、人々の気質、というものが必ず伴う.

クリスマスの風習は日本にもあるが、地球人が生んだ 「クリスマス」 の景観は、北欧でなければ味わえない.

それには、暗い空と、いてつく寒さと、足元に光る雪と氷と、窓辺に輝く電飾が必須だからだ.

そして、たぶん、広大な風土と、他者に寛容で心こまやかな人々もまた.


その一方で、新年の祝いの仕方は、日本がその第一の土地だと名乗りを挙げてもよいだろう.


ヨーロッパでは、新年明けは、クリスマスの一部で、私がいたスウェーデンのウプサラ大学では、元旦から授業もあった.

陽光輝き、やや暖かすぎる屋内の暖房と身ひきしまる外気と、その日は威儀を改める人々とが、新年明けにふさわしい.


・・・・・・というようなことを私が言うと、世界には、もっと 「これにはこの土地がふさわしく象徴的」 という候補がたくさんあることだろう.


恋人としみじみ歩く場所として象徴的な通り・・・・・・
子どもが落ち着いて登校するのに象徴的な環境・・・・・・
地球文明の最先端を研究するのに象徴的な場所・・・・・・
独りで隠遁したい修行者が身をおくのに象徴的な土地・・・・・・
若者が集まって能力を全開して生きてゆくのに象徴的な街角・・・・・・

そんなものが無数にあるのが 「世界」 なのだ。
画家や写真家や映画監督や小説家たちは、そのような風土を求めて世界を観る.
だから、人は、広い世界を知るべきだし、それが、その人間の中身の広さを決めるのだ.


スウェーデンの草原の風を知っていても、日本で生きるのには何の役にもたたないだろう・・・とおもう人がいたら、その人は、まだ、生きることの意義がわかっていないということだ.

生きる、ということの意味と、だれもが求める 「幸福」 は、目に見えないところに存するものなのだ.



k


(本記事は、2007年10月5日、東京において書かれた.)


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すがすがしさ は どこから
- 2019/04/08(Mon) -
きょう、日本南西端の離島の小学校も、きょう始業式



始業式はよい



なぜなら



大人が、教員も、心機一転、襟を正し すがすがしい気持ちになっているから.


n
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荒野で叫び謳う
- 2019/04/06(Sat) -
きょう、ひさしぶりに人が大勢いる場所に出て、待合室みたいなところでやむを得ずテレビを観ていた.

そうして、NHKアナウンサーと相手の話を聞いていて、わかったことがある.


日本人は、相手がそう思いたい方向に沿った話し方をするものだ.たとえ、自分の見解がそれとは多少違っていても、相手の話にうなずき、その趣旨に沿いながら、自分の見解は言わずにいて、いよいよ亀裂が避けがたくなったところで、それを修正する可能性はどうでしょうか、と持ち出す.


私は、スウェーデンの大学では、討論の訓練も受けた.
相手の話に対するいくつかの応答例があって、どれが最もよい応答かを説明され、そう話すように教えられた.その教えの1つが、要点を冒頭に言う、ということがある.


しかし、それを日本人相手に行うと、自分の見解にご満悦の相手に冷水をぶっ掛けるようなことにもなりうる.


それでヨーロッパ流でよいわけなのだが、日本では、自分とは異なる意見を正面から言われると、自分の全てを否定されたかの如くこちらを憎み敵視する単細胞な頭脳の持ち主が大勢いる.

他の日本人と同様にナアナアだったスウェーデンに行く前の私は、帰国してからは、一時雇われ頭脳をしていた東京の出版社でも、沖縄のNPO団体でも(職員は内地出身者である)、私は、別に相手のニンゲンをどうとも思って発言しているのではないが、相手がご満悦の企画や行動を、「そんなことは・・・・・・だから、やめるのがよい」 とあっさり断言した結果、ニンゲンとしての私を憎まれ、とんでもない誹謗や、嘘ばかりからなる中傷、という仕返しを受けたものだった.


私は、だが、自分のそんな発言習慣を今後も改めるつもりはない.だから、ここで若者相手にも好き勝手なことをしゃべるために、勉強を教えているようなものだ.

私の任務は、人が気づかないことを天が下に告げ知らせること、人が手を出さないことを敢えてすることだと明らめている.これからも、野によばわる者としての生を全うするつもりだ.


s



(本記事は2009年8月20日に書かれた.)

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