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あるスウェーデン人女子学生の記憶
- 2019/04/19(Fri) -
知り合いから紅茶をもらい、たまには飲んでみる気になった。
ティーバッグをあけた瞬間、スウェーデンで出会ったある女子学生を思い出した。


私と彼女は、北欧の観光名所でもある、ウプサラ大学中央図書館で終日勉強していた。
指導教授の計らいで図書館に自分の席があり、
それを規定日数使用することが義務付けられていたからだ。


私たちは、休憩のときに、図書館内のカフェでよく落ち合った。



ともに決まった奨学金で生活していた私たちは、日々倹約に努めていたから、
カフェでも、菓子類は頼まず、お茶だけを飲んだ。
無論、お茶もたまに、である。
普段は、自分でもっていった保温ポットとバナナでカフェの外のカウンターにもたれた。



カフェの中の 「紅茶」 は、ティーバッグを1つ買うことになる。
それにポットのお湯を注ぐだけだ。砂糖とお湯はいくらでも使える。


彼女は、飲み終わったそのティーバッグを、大事そうにティッシュにつつんでカバンに入れた。



当時の私は、つつましいがおしゃれな彼女が、
自室でその紅茶の葉を乾燥させて何かに使うんだろう、くらいに考えていた。



しかし、いまおもうと、そうでなかったかもしれない。



彼女は、1杯のお茶も倹約しようとしたのかもしれなかった。





その後、彼女は、ロンドンの商社に就職が決まって故国をあとにした。



その彼女の名前は、  もう覚えていない。



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(本記事は、2008年11月18日に書かれた。)
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enkelhet
- 2019/04/11(Thu) -
毛者たちを観ていると、



大量にある通常食と、少量のたまの好物とでは、必ず好物にとびつくのがわかる.



美味いものを食べてまだ空腹でいるほうが、美味くないもので飽食するよりもよいのであろう.



同様に、自分がしたいことをするのを優先して、好ましくないことにはやむを得ない状況以外は身をさらさない.






こんな同棲者を観ているから、



私はますます身勝手なジジイになってゆくのである.



       090310_1628~01

skrivit på 20160515
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崇高な彼女
- 2019/04/09(Tue) -
(10.6.16.記)


1か月ほど前には、わが家におなかの大きいメス猫が3匹いた.

1匹めを、考えに考えた末に避妊手術した.


ぺったんこになったおなかで帰ってきた彼女は、もともと親もわからなかったのだが、これで子ももてなくなった.
これからは、私ひとりが彼女の家族だ.


翌日もう1匹を獣医に連れていこうとしたら、ふっつりと姿を消した.そして、そのまま、いまも見なくなった.


そして、3匹めをどうするかためらっていたところ、彼女も姿を消した.そして、ぺったんこのおなかで戻ってきた.

その彼女は、えさをよく食べるようになったが、子猫がそばにいるようには見えなかったので、死産だったか
流産したのか、かわいそうに、と思っていたが、

きょう、子猫4匹を連れて、ベランダに戻ってきた.

その母猫も、そのまた母猫も、私のところで、この3年の間に出産してきた.これで、4代目ができたことになる.


よく、野良猫の避妊手術は必須という意見に出会う.

しかし、猫も、街猫として土地に住む権利をもつはずだ.

食事とトイレをヒトが始末してやれば、世界遺産の、人口と猫の数が拮抗する西ヨーロッパの歴史的な街のように、
ヒトも猫もすみやすい土地になるのではないか.



私のとなりには、私が妊娠中にもかかわらず手術した猫が寝ている.彼女の孤独はどれほどだろう.


栗之丞



私のところの猫の家系は、孫は自分の祖母の猫を知らないようだが、二代目は自分の母も子どもたちも知っているようだ.
娘たちとはいまでもならんで日向ぼっこしている.猫にも、家族意識があるのだ.


sumi&ann


子どもが自分でエサをもらいに動けるまでは、どの母親も、自分は一切たべずに、運べるエサはくわえて巣に運んだ.

牛生肉なども、自分は絶対に食べず、5回でも、6回でも、家を出て、ベランダを下り、木に登り、隣の廃ビルの下の
子猫のところまで、食べ物を運ぶのである.
それは、初代も、二代目もそうだった.そして、いまの母親もそうするだろう.

自分は食べず、授乳しているので、やせて筋ばっても、母猫は子猫へとエサを運ぶ.



その姿は、どんな兵士にも劣らず勇壮で、


どんな修行者にも劣らず忍耐強く、


どんなメロスにも劣らず断固とした意志が貫いてい、


どんな神さえも道を譲るであろう神々しさをたたえていた.



二代目も三代目も、残ったのはメス1匹きりだったから、いまの赤ん坊4匹もいずれは旅立つことだろう.

しかし、母の務めはそのようなことにかかわりをもたない.


彼女は、ただ、 貫徹する だけなのだ.

ann



(当の子猫の写真は後日掲載)



anns
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文化と風土と感情と
- 2019/04/08(Mon) -
土地には、そこならではの気候と、地形的景観と、人々の気質、というものが必ず伴う.

クリスマスの風習は日本にもあるが、地球人が生んだ 「クリスマス」 の景観は、北欧でなければ味わえない.

それには、暗い空と、いてつく寒さと、足元に光る雪と氷と、窓辺に輝く電飾が必須だからだ.

そして、たぶん、広大な風土と、他者に寛容で心こまやかな人々もまた.


その一方で、新年の祝いの仕方は、日本がその第一の土地だと名乗りを挙げてもよいだろう.


ヨーロッパでは、新年明けは、クリスマスの一部で、私がいたスウェーデンのウプサラ大学では、元旦から授業もあった.

陽光輝き、やや暖かすぎる屋内の暖房と身ひきしまる外気と、その日は威儀を改める人々とが、新年明けにふさわしい.


・・・・・・というようなことを私が言うと、世界には、もっと 「これにはこの土地がふさわしく象徴的」 という候補がたくさんあることだろう.


恋人としみじみ歩く場所として象徴的な通り・・・・・・
子どもが落ち着いて登校するのに象徴的な環境・・・・・・
地球文明の最先端を研究するのに象徴的な場所・・・・・・
独りで隠遁したい修行者が身をおくのに象徴的な土地・・・・・・
若者が集まって能力を全開して生きてゆくのに象徴的な街角・・・・・・

そんなものが無数にあるのが 「世界」 なのだ。
画家や写真家や映画監督や小説家たちは、そのような風土を求めて世界を観る.
だから、人は、広い世界を知るべきだし、それが、その人間の中身の広さを決めるのだ.


スウェーデンの草原の風を知っていても、日本で生きるのには何の役にもたたないだろう・・・とおもう人がいたら、その人は、まだ、生きることの意義がわかっていないということだ.

生きる、ということの意味と、だれもが求める 「幸福」 は、目に見えないところに存するものなのだ.



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(本記事は、2007年10月5日、東京において書かれた.)


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すがすがしさ は どこから
- 2019/04/08(Mon) -
きょう、日本南西端の離島の小学校も、きょう始業式



始業式はよい



なぜなら



大人が、教員も、心機一転、襟を正し すがすがしい気持ちになっているから.


n
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開国
- 2019/04/06(Sat) -
日本は明治維新をもって開国したと言われている。外国と交渉をもったのは何も明治になってからではないが、いわゆる欧米諸国の文化に接することで、それまでと比べて革新的変化を遂げたという意味で、その時点をもって「開国」と呼ばれているのであろう。
しかし、いまの日本人と世界の諸国民との相互理解度をみるに、果たして、日本人は真に世界人になったと言えるのか。
まず、日本が知るべき「世界」とは、現在の日本の同盟国の如くみなされているアメリカであってはならないであろう。
なぜなら、アメリカには、我が国にさえ及ぶ長さの文化伝統がないからである。このことはヨーロッパ諸国においては十分に認識されており、優秀なヨーロッパの学生でアメリカに行って就職したいと考える者は極めて少ない事実にも現れている。アメリカから学ぶものは、マクドナルド・ハンバーガーと経営戦略の手法のみ、と明言する国民もいる。
日本が学ぶべきは、尊ぶべき文化伝統をもっている国、すなわち、まず、ギリシャ・ローマなどの共通のふるさとをもつヨーロッパ諸国である。また、それとは大いに異なるもやはり独自の文化をもつ中近東諸国も、最古の文明発祥の地であるとともに、ローマとならぶ世界帝国ペルシャの伝統を有する。そして、ギリシャとならぶ人類の精神的遺産をもつインド。これらに続いて、いまだ日本人には別世界のアフリカ諸国。
これらの国々の民と日本人がどの点において違うというのか。ギリシャ文化を尊ぶからといっても、ヨーロッパの諸国民といっても、いまや日本人と大差ないだろう、彼らがもっている文明は自分たちももっている、いや、彼らにないものも日本には豊かだ、と考えるのが大方の日本人であろうが、その無知に我らは早々に気づくべきなのだ。
数例を挙げよう。日本では、路上や交通機関の中で自分の子どもを叱り飛ばしている母親がよく見られる。ヨーロッパのある国では、そのような母親は皆無である。ぐずって泣いている自分の子どもの前に同じ目線でしゃがみこんで静かに語りかける母親がその国にはいるばかりだ。その国では、いわゆる家庭内暴力もまた消滅に近い。他者に苦痛を与えることが極端に嫌われ、そのような母親、そのような父親が出来上がるのである。
日本のいわゆる「セックス産業」がどこの国にもあると思ってはならない。セックス産業が皆無の国もある。そこでは、では、むしろ、「性教育」として、男女性器の構造や性交の仕組みなどが学校で教えられる。日本人は、それらの「教材ビデオ」さえ、愉悦の対象として追い買い探す国民として知られている。憐れむべきは日本人が生まれてこのかた教え込まれた性意識なのである。ある国では、独身女性が男性を部屋に招いても、そこになんらの「誘い」も込められていないのが常識だ。そこで恥ずべき行為を犯すのは我らの同朋ばかりである。  日本人の身体は惰弱で、欧米人のそれが逞しく見えるのは人種的差異によるものと考えているのが大方の日本人であろうが、それも、欧米人がいかに身体を鍛えることを常識視しているかを知れば、自分たちの怠け心が身体を形成していると日本人は気づくであろう。ジム通いは日本では多分にスタイル保持・肥満防止などの理由から行われているが、ヨーロッパでは、ジム通いは活動的に日々生きるために必須のものとみなされている。ために、ジムには、中学生から老人まで集合して日々筋力と心肺機能を鍛えている。日本の老人が日陰者的な理由の一つに、自分のことを自分の身体でまかなえない弱さがある。
近年、日本でも常識化している「男女平等・機会均等」とはなんだろう。ヨーロッパで発達したその考えと日本の現実とは大いに趣が異なっている。真の「男女平等」とは、男は男らしく、女は女らしく、その上での対等関係、なのである。男と平等だからと、ことさらに肩肘張って男に噛み付くインテリ女史は、男女平等のはきちがえの産物だ。機会均等も、無論、バスの運転手が女であってもよく、保育士が男であってもよいわけであるが、その上で、女性がしたほうがより適切な職業、男性がしたほうがより効果的な職業、というものがあるのも事実である。それをわきまえて初めて両性相互の尊敬が生まれるべきものなのである。
日本では、いまやほとんどの高校生が「大学」へ進学することを当たり前視している。しかし、ヨーロッパでは「大学」は、学問をして、さらに自分の就職適性を高めようとする者か、研究を志す者だけが住む世界である。その期間、親に依存して生きながら、非生産的なことにのみ従事しているような大学生が生きる場所はないのが世界の大学なのだ。
日本人がこのような奇矯な国民となってしまいながらも世界を覗き見、世界で活動することを望見するなら、次世代の若い日本人たちは何をすべきであろうか。
外国語の学習、これは自明のことである。そして、日本の学校でまず教えられる外国語である英語の学習についてもこれは妥当である。なぜなら、英語は世界の大部分の言語であるインド・ヨーロッパ語族の中でも最も進化した言語であるから、英語を学習することで世界の言語の扉を開けるのは理にかなう。また、仮に学校で英語になじめぬ者も、落胆するには値しない。英語がだめでもドイツ語やスペイン語が自分に合う、ということもある。言語は人と同じで、個人によって合う・合わないがあるものなのだ。
ただし、英語学習でも、注意するべきは、昨今の会話至上主義である。その会話とは、買い物や道の尋ね方など、アメリカならば、新聞も読めぬような者でもできるレベルの会話能力を練習する「学校」が日本に雨後の筍のようにできていることだ。しかも、その教師の故国での学歴・教養は一切保障されず、時には、フィリピン人やロシア人が英語教師だったりするのも、日本ならでは、である。
外国語は、他国民とともに有意義な時間をもつために学ぶのである。相手に尊敬の念を抱かせるような言い回しができ、込み入った生活・仕事上の問題などを議論でき、人の心を動かすような手紙やメールを書くことができ、外国の優れた文章を読んで異文化の教養を身につけることができるためには、まず、日本の学校でしているような、読解と作文の練習を着実にすることだ。会話能力は、その国やそれが必要な状況に置かれれば自然と急速に伸長するものなのである。
しかし、真に世界人となるには、外国語能力などよりももっと大きなことを必要とする。
それは、偽りなく生きることができる能力である。「偽りなく」、このことがいまの日本の若者で真にできる者がどのくらいの割合でいることだろう。気に入らない上司や同僚の悪口を陰で言うばかりか、時には虚偽を喧伝しても他者を陥れようとする者が、ビジネスの場でもアカデミズムの場でも幅をきかせているのもまた日本的風景だ。どうして日本の若者はこのように「嘘つき」になってしまったのか。年長者の知見を尊ぶ風潮の消滅、口先だけで周囲を動かせるとの誤った過信、またそれにつきあい軽挙妄動する組織。真に実力ある者ならば、他者を排斥したり陥れたりする必要がない。自分の内面に自信のない者は、固着した組織力に依存し、未知の世界に踏み出すことはしない。
日本の次世代を担う者たちよ、ほんとうの意味で、心身頭脳を鍛え、自らを優れた実存にせよ。そして、自分および自分の周囲にない価値をもつ世界へと雄飛せよ。世界から学び、そして、それをまた我が国に持ち帰り、日本と日本人をより尊ばれるべき存在へと変貌させよ。それが成ったとき、日本の真の意味での開国がなされるのだから。


s

 
(10.8.26.記)
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荒野で叫び謳う
- 2019/04/06(Sat) -
きょう、ひさしぶりに人が大勢いる場所に出て、待合室みたいなところでやむを得ずテレビを観ていた.

そうして、NHKアナウンサーと相手の話を聞いていて、わかったことがある.


日本人は、相手がそう思いたい方向に沿った話し方をするものだ.たとえ、自分の見解がそれとは多少違っていても、相手の話にうなずき、その趣旨に沿いながら、自分の見解は言わずにいて、いよいよ亀裂が避けがたくなったところで、それを修正する可能性はどうでしょうか、と持ち出す.


私は、スウェーデンの大学では、討論の訓練も受けた.
相手の話に対するいくつかの応答例があって、どれが最もよい応答かを説明され、そう話すように教えられた.その教えの1つが、要点を冒頭に言う、ということがある.


しかし、それを日本人相手に行うと、自分の見解にご満悦の相手に冷水をぶっ掛けるようなことにもなりうる.


それでヨーロッパ流でよいわけなのだが、日本では、自分とは異なる意見を正面から言われると、自分の全てを否定されたかの如くこちらを憎み敵視する単細胞な頭脳の持ち主が大勢いる.

他の日本人と同様にナアナアだったスウェーデンに行く前の私は、帰国してからは、一時雇われ頭脳をしていた東京の出版社でも、沖縄のNPO団体でも(職員は内地出身者である)、私は、別に相手のニンゲンをどうとも思って発言しているのではないが、相手がご満悦の企画や行動を、「そんなことは・・・・・・だから、やめるのがよい」 とあっさり断言した結果、ニンゲンとしての私を憎まれ、とんでもない誹謗や、嘘ばかりからなる中傷、という仕返しを受けたものだった.


私は、だが、自分のそんな発言習慣を今後も改めるつもりはない.だから、ここで若者相手にも好き勝手なことをしゃべるために、勉強を教えているようなものだ.

私の任務は、人が気づかないことを天が下に告げ知らせること、人が手を出さないことを敢えてすることだと明らめている.これからも、野によばわる者としての生を全うするつもりだ.


s



(本記事は2009年8月20日に書かれた.)

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