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目覚めた人たちの道
- 2019/03/31(Sun) -
釈尊が思惟し、ソクラテスが思考したころよりは、
現代に生きる人々は、学校教育のおかげで、
ニンゲンの細胞が生まれた時から生成と死滅を繰り返し、
ついには死滅が支配するということを常識で知っているし
ニンゲンは世界規模の殺し合いを何度も懲りずに行ってき、
いまも飢えて死ぬ子どもたちが世界のあちこちにいることを
歴史を勉強することで、ニュース報道に接することで知っている。


それなのに、釈尊が覚醒した知恵や、ソクラテスがこだわった知恵を
いまだに人々が身につけられないのは・・・・・・それが、ニンゲンなのか


かつてニーチェは、「喜びよりも悲しみのほうが深い」 と言った。
確かに、たとえば、子猫を見ても、かわいい、と喜ぶよりも
それがクルマや他の動物によって早々に殺されることが 「真実」 と諦(あきら)めているほうが
自身の心を守ることはできるだろう。
しかし、たとえ、「常なるものは無い」 のが真実だとはいえ、
世界の喜びの後ろに全て悲しみを見る目もまた、偏った見方の1つだろう。





ニンゲンが、本当に、仏陀の知恵、つまり、目覚めてしまった人の認識知や
ソクラテスが追究した知識を、あたりまえのようにわきまえるようにならない限りは
政治指導者同士の、あるいは、研究機関での、あるいは、
学校や近隣同胞との、争いもめごとは終わらないだろう


釈尊が目指したのは、全ての人々が自分と同じような知恵を得て
世界全土がまっとうに動く地上の姿なのだったろう


争いこそが、競争を生み、仕事も研究も進歩させる、という考えは、
そういう状況しか知らないニンゲンならではの理屈だ。
相手を虚偽によって落し入れ、密室会議で出し抜くやり方での 「勝利」 など、
所詮は、蝸牛の争いの勝利にすぎず(あるいは単なる当事者の安逸のためで)、
そのようなものは、人類全体の進歩にも、社会善への前進にも何ら寄与しない





世界はこのようにあるのに

ニンゲンたちの間では、なぜ、「見えない」 者たちが圧倒的なのか


(本記事は2008年10月7日に書かれた)


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メンタルトレ?
- 2019/03/26(Tue) -
ネットの動画では、メンタルの「コーチ」と言われる人たちが
さまざまだが、一様な説教をしている.


大人はともかく、子どもたちはそれをどう聞くのだろう.


私の十代は、無論、メンタルな勉強も自分でみなしていた.


私の師は、『三太郎の日記』(阿部次郎)、田中美知太郎およびプラトンの著作、仏陀の教え及び日本の禅師の著作、論語や荘子、聖書(特に旧約)
などであった.



その私からして、いまのネットコーチたちの教えは、なるほど、と思うこともあり、また、若い私がつとに自分で悟っていたことも多い.



要は、よりよく生きる、ということに尽きるとおもう.

夫婦喧嘩で女房に水をぶっかけられ、最後は処刑されたかつてのギリシャ人が言っていたように.


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小学校教員
- 2019/03/26(Tue) -
還暦になって職場を離島の小学校にした。

子どもには、感動させられることばかりである。

いまの年齢だからそうなのか、

私が二十代、三十代に小学校教員をして、いまと同じ気持ちになれたか、

あるいは、若い時から何十年もこの職場にいた私と同世代の校長・教頭・教務の先生たちもいまの私と同じ気持ちであろうか、違うだろう。

まぁ、なんにせよ、私は、自分に満足している。

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序列 311
- 2019/03/11(Mon) -
人はどんなことにも序列をつけないではいられない.
それは必然なのだ.

なぜなら、
行為も、
それが起こる空間も時間も
ひとつの行為にひとつの空間時間しか占有しえないゆえ、
人が存在すれば、
そこに、先行、次位、の別があらゆるものにできざるを得ないからである.

かくして、人が集まれば組織となり、階級・地位の別となり、
序列が至るところにできることになる.

そして、序列ができれば、それが、人工的な 「優劣」 という形をとる.

人間以外の世界にも序列はあるが、それは自然力による序列である一方、
人間世界の序列は、それが人工的なものであるため、
人による序列、すなわち、
人知の範囲内での正誤善悪得失についての判断によるか、あるいは、
個人がもつ好悪の感情による序列決めという結果になる。だが、
それもまた人間の必然なのであるから、それについて、
あれこれ言ったり、嘆いたり憤慨したりするのは、
人間の在り方としては誤った思考作用だと言わざるを得ない.



しかし、人は感情ない機械とはちがうので、
生きるためには自分を生かしたいとか、やりがいのある目的がほしいとか、
単に、たのしく生きたいとおもうのもまた必然なのである.


かくして、人は、序列の価値観とは異なることを目指す人と、
序列の価値観で幸福を感じたい人に分かれることになる.


前者に比べて後者の数のほうが圧倒的に少ないのは階級ピラミッドの形状通りだが、
後者の幸福はその所有者数が希少であるために前者の大多数もまた願望とする絶対的価値であるかような錯覚幻想が醸成される.その大多数の錯覚幻想の上に少数の後者の幸福感は存在する。




幸福とは、富の多寡、豊饒か否かによるのか




幸福は多重であろうが、

しかし、悲しみは、たぶん、銀行口座の預金額のゼロの数の多さとは無関係に、万人共通のはずである.
愛するものを失った悲しみはだれもが同じはずであり、
内面の苦悩もまた同様であろう.


悲しみは、だれもが同じ苦しみであるのに、
「幸福」 は、もてる者ともたざる者に分かれるというのか.



昨日、日本の多くの人々が悲しみの苦痛を味わった.

その人々に、万人共通の幸福が回復されることを願う.
(2011.3.12.記)


東京大空襲があったのが1945年3月10日.

日本のこの年末のよき季節に、もうこれ以上の悲劇のなきことを祈る.   2019.3.11

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