みんな知っていろうが
- 2015/07/31(Fri) -
うわ、やっべぇ、





とでも言うような時でも、






周囲から、






応援されると、






なんのこともなくなる。 痛くもなんともなくなる。






それが、





ヒト




なのだろう。








よい素質の種に生まれたものである。




私のような者でも、 





そんな応援をしてくれるものたちがいるおかげで、

がんばれているのである。



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バナナ
- 2015/07/27(Mon) -
バナナを愛食している人はわかるであろう.
あれは、3日ともたない.冷蔵庫にいれるべきではないものである以上、
室内に放置しておくと、すぐに皮も身もぐずぐずになる.


そのような食べ物であるため、日々数回にわけて食するには、
それを昼食前に買えるポイントを職場のそばに持たなければならない.

私が仙台で心臓を壊し、大学を去り予備校講師をしていたころは、
学校のすぐそばに中型総合デパートがあり、そこでバナナを昼前に買っていた.
バナナと、帆立寿司と、ミネラルウォータ、である.



どうしてそのような食事になったのかわからない.生徒は私がいつもそれなので揶揄もした.
心臓を気遣ったからではない.心臓はもうマラソンもできると医師から言われていた.
帆立は、たぶん、仙台という土地柄の海産物の豊かさのせいだろう.
バナナと水は・・・・・・




ウプサラ大学中央図書館、通称カロリナ、に机があったために、
午前から夕方までそこで勉強していた.
昼食は、ロッカーの前でむさぼるバナナかリンゴ、そして北欧のミネラルウォータだった.
親しいおしゃれな金髪の娘もそうだった.
勉強、それは、なんの違和感も精神的境界もなくのめり込める自然で広大な対象なのだ.



いま、バナナを食べながら、自分の心理はそんなところに起因しているのかもしれないと気づいた.

でもまあ、そんなことはどうでもいい.

スウェーデンでも、仙台でも、ここ沖縄の離島でも、
私はバナナを食べて水を飲んで、机に向かうのである.



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(09.7.11.記)

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スウェーデン語を話せる日本人
- 2015/07/26(Sun) -
生活会話能力は、知能とは関係ないので、


スウェーデンに住んでスウェーデン人と結婚した日本人の人たちは、

日本のどんなスウェーデン語の先生よりもスウェーデン語が話せる.


私にも、そんなスウェーデン人と結婚した、医師、弁護士、商店主夫人、などの

日本語もわかる日本人の知り合いがウプサラにいた.



私がスウェーデン語から翻訳書を出したとき、出版社の社長は、

そんな、スウェーデン人と結婚してスウェーデンに住んでいるスウェーデン語が堪能な人は翻訳には不向きなのだ、

と言っていたのをそういえば思い出した.




私も、スウェーデンにいたときは、日本語を使うことは一切なかった.日本人の友人がいなかったし、

あるいは、他大学の日本人研究者や留学生は日本語を話せる私に接近しようとしたが、

私は、そこに距離をおいていたからだ.



日本人研究者だけでかたまっていた某国立大学出身者たちもいたが、

私は、もともとスウェーデンでやってゆくつもりだったから、

かたまる日本人の群れと接触しないようにしていたのだ.



だから、スウェーデン語が堪能な 「スウェーデン人と結婚した日本人」 にも近づかなかった.


スウェーデンについて知るなら、そんな日本人よりも、直に、スウェーデン人から習えばいい.




先日、ある出版社に、英語とスウェーデン語の比較教本みたいなものを書いてもよい、と電話したら、


日本では、スウェーデン語を教える教育機関は限られているから、そのような図書は出せない、とのことだった.



私も、


日本がそうなるにはまだ20年ほどかかるだろうが、先見の明を出版社に与えようとしたのだが、


担当者がいらない、というなら、日本人にまだ当分、無知、でいてもらおう.







そう、スウェーデン人の教師が、これを日本語に訳してほしい、といったスウェーデン語の有名な童話も、


日本の出版社に見せたら、「絵が気持ち悪い」 という担当女性編集者3名の意見で見送りになった.


私も怠け者なので、それ以外、活動もしていない.




このブログを読む人はスウェーデンに関心がある人々であろうが、



日本の営利企業たちは、



民族の啓蒙、
などということは考えていないのだから、




今後、次の2世代くらいあとになって、



日本人はスウェーデン人の国民性も知って、



少しは、文化も、その結果、政治も、上向くかもしれない、というのが未来図であろう.



ヒトは、



人類総叡智の向上を目指しては生きていないのだから、仕方ないのである.




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日本人にはないスウェーデン人の行動思考様式 (i)
- 2015/07/19(Sun) -
ものごとをあるがままにしておく、



という考え。




もちろん、重要文化財に落書きをする国民の真逆であるが、そのようなことだけでなく、




住居の周囲にふつうにいるハリネズミを捕獲して飼育しよう、などと考える者もいない。




生物も、あるがまま、がよいのだ。




さらに、




落し物は、そのまま、路上に、建物の通路に、さわらずに放置しておく。




日本人の大半がするように、それを拾って、近くの商店か人が立ち寄りそうな場所に預けるほうが親切だ、って?




モノを落としたのは持ち主の過失。



そして、それを捜そうとする持ち主が真っ先に来るのが自分の通った場所。



だから、放置しておくのがよいのだ。




それが、財布だったら、って? スウェーデン人の集団には、それをネコババするような者はいない。移民ならいざ知らず、という安心館がある。



それが、ハンカチとか洗濯ものとかで、路上で埃にまみれるままになろうとも、って?



汚れは、回収した持ち主がきれいにするべき、こちらが心配することではない。



人によっては、他人に、拾われ、さわれたものはもういらない、という者もいるかもしれない。



あとは、それが泥にまみれたら、定期的に来る掃除担当者が始末するだけのことである。





ものごとをあるがままにしておく、





たぶん、日本民族が決して1世紀ぐらいでは身に着けられない行動思考である。





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スウェーデンに留学しようという日本人大学生に告ぐ (i)
- 2015/07/16(Thu) -
実力をもて




日本の大学教授の顎の下をさわってごきげんとれるのは 世界の実力ではない。





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ある翻訳者
- 2015/07/05(Sun) -
釜ヶ崎の牧師だという人物が、かの聖書の翻訳を自らも行っているという。


有名な、「悔い改めよ」 ということは、「苦しみを与えている人の側から見よ」 という訳語になるという。

「柔和な人は幸いである」 は、「抑圧にめげない人は神からの力がある(=神の力がある)」 が正しいという。



私は、聖書は、ゴート語を含む古代ゲルマン諸語の訳でしか読んだことがないが、

きっと、指摘のようなことが随所にあるのであろう。




翻訳者、


私の職業、というものも、そういうことになるだろう。


翻訳 とは、不思議な作業である。


自分で創作した作品ではないながら、ことばひとつひとつ、その結果、書物全体がもつ空気まで左右することになるのが翻訳である。



尊い作業をする人物を知った休日の朝である。


* * *
「人は、どんなにみじめな死に方をしようが、それで、
その人の人生が、みじめだった、ということはない。
イエス自身も、十字架上で、
我が神よなぜ私を見捨てたのか、と言って亡くなった。
私も、修道者らしい死に方ができる自信ないです。
それでもいいんだ、ということを教えてくれるのが・・・」

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記憶
- 2015/07/03(Fri) -
久しぶりに、映画、Brave Heart を観てみた。






映画の舞台のスコットランドやイングランドばかりでなく、

古ゲルマンの文化が、スウェーデンにも残っていて、






そこで、私は、心地よく、勉強して、運動して、恋愛をしていたのだったことを思い出した。







スウェーデンの気風など、日本人は、これから、英語圏、ドイツ語圏、フランス語圏、などいろいろ親しまなければならない未開人だから、スウェーデンのことはまだまだ1世紀くらいは先にならねば知られないだろうが、





そのころに、




ドイツだけがゲルマンではないことと、





その精神の雄渾さを学びたまえ。いま、未来を確言しておく。




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愛情のあり方
- 2015/07/02(Thu) -
種(しゅ)の異なる同棲者たちに、

手術をする、ワクチンやその他の注射を受けさせる、無論、好物を与える等々、

明日にも私に愛想をつかして逐電するかもしれない毛物たちに全国最低賃金で働く離島の私が世話をするのは、

なぜなのだろうか。



そんな時間と労力があるなら、

いまからでも遅くはない、嫁をもらって自分の子どもをつくれ、

と、先日、弟を亡くした私に真顔で母親や伯父たちが言うのだから笑える。私ももう58だ。



◆◇◆◇◆◇



私は親になったことがないから、親の感情を知らない未熟者なのか。


物故した私の父は、死ぬまでの40年間私と暮らしていず、会ったのも、


私がスウェーデンから一時帰国していたころの2、3回くらいであった。


そんな私に十代終わりまで出資した父は、なぜだろう。


家名を上げるため私に期待したのか、いや、やはり、


自分の子どもだから、無償の愛を注いだのか、


単に、家族構成員として有能になってもらわないと困るとおもってのことか。



* * * * * * * *



私にも、たぶん、無償の愛情を注いだ、血の繋がらない子どもが二人いた。


「授業参観」 という記事で書いていいる アキラ と、


カメのアプの話で書いた もー という娘である。どちらも小学生時代を私と過ごした。その母親(別人だが)とも。


私は彼と彼女をともに、自分の一部のように愛した。


あれが、親の愛情だろう、と当時確信した。


私が知るスウェーデン人映画監督も、どういうつてか、北朝鮮人の娘を養女にしていた。


地の繋がりのない子どもにも、愛情はもちうる、と言えるだろう。


愛情というと、男女のそれを真っ先に思い浮かべがちだが、


考えたら、


パートナーとして、セックスもして生活の相談相手に対する愛情もあれば、


子どもに対する愛情もあり、


いや、職場同僚に対する正しい愛情もあり、


部下に対する愛情、


教え子に対する愛情、


隣人に対する愛情、


そして、種の異なる生物に対する愛情、


など、愛情の正しいあり方は、この世のあらゆるものに無限にあるのではないか、


そして、親子の愛情も、


そうしたことの一形態に過ぎないのではないか。






そう考えると、


私は、


子どもに対する愛情とか、種の異なる生物に対する愛情とか、よく知ることができている。

 
いや、離島の私のところに勉強に来る子どもたちのおかげで、


生徒、あるいは、弟子、に対する愛情も気づかせてもらえた。


そして、そういえば、東京の職場で、部下に対する愛情を気づかせてくれた若者もいた。


幸いなことに、パートナーへの愛情もいくつか。



◆◇◆◇◆◇



ヒトの世界は、ヒトそれぞれがみな考え方が違うのが当然なので、相互理解などありうるはずもなく、


それでも、組織や社会が成り立っているのは、みんな自己保存ために折り合いをつけているからだ、


という言説があり、それはそうだとおもうが、


かように、愛情が無限の種類、無限の方向にありうるということでもあるならば、


それはそれで、


ヒトの世界も捨てたものではない、とおもうのである。



アキラと

ap

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