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性 とは
- 2012/03/31(Sat) -
性 を 教育する、とはどういうことだろう

日本の教育者や 親御さんたち

どうして、難問扱しているのか、私にはわからない.



人生には、生活には、食餌と同様に、死ぬまで、必要なものなのに、

なぜに、日本の人々は、タブーの対象に、子どもに教えるに憚る事柄にしているのか.


道具は、身体に備わっているし、

欲求も感じる.


それを、知って知らないことにできないのではないか?


ちゃんと、「教える」 ではない、「伝えて」 ほしい.
正しい性への取り組みを.



性は、たぶん、人生の 「一部」 ではない


対人関係を形成する上で、

日本人が決定的に世界人になれない重要原因になっているようにおもえてならない.


日本の教育者のみなさん、再考、努力 してください.



世界の一員としてあなたたちを迎える立場として.






image011.jpg
(Uppsala i Sverige)





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一部K29同窓生へ
- 2012/03/27(Tue) -
一部だよ、

私は、

ずっと、

高校の同学年と結婚した同窓を

いいナァ

とおもっていたのだ.

それはいまも、

かわらない.

同じ思い出を共有でき、

仲良しでいられるんだろう.



ところが、

日本情報にうとい私は、

きょう、54歳も終わりになって、


マツトウヤユミ
という、まぁ、むかしは、ユーミンとして私も知っていた歌手の

♪どうしてどうしてわたしたち訣れてしまったんだろ、あんなに愛していたのに♪

というような (たぶん) ウタを聴いてしまったのだ.



そうだろ?

恋人と別れたみんな、みんな、そんな気分になったろ?

それを、同窓と結婚した、あの幸せな(ミ ̄ー ̄ミ)やつらは^^)

知らないんだぁ、と猫たちに食餌つくりながら、あらためて、ほぅう、とおもった中年なのであった.




まあ、いいじゃないか.こんなことでも、




万華鏡のような人生の一面がわかることもある、と.




v1
(einzelgänger)
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おもしろいことひとつ
- 2012/03/22(Thu) -
    私の翻訳は、
    出版助成金を得ているから、
    ほしい図書館には差し上げる義務がある.

    無論、国会図書館や母校は自動的にあるいは自分で買っておいてくれているが、
    そうでないところもある.
    
    いまは、蔵書検索システムがコンピュータで完備しているところがほとんどだから、

    早い話、

    国立大学全部、県立図書館全国、政令指定都市立図書館とかは、検索して、
    ないところには希望を尋ねた.


    なかには、知り合いの子どもが通っているから、とかの理由で、

    中高校にも連絡したことがある.


    
    丁寧な礼状が学長・校長先生から来た大学・高等学校もあるし、
    学校新聞に載せてくれた中学校もある.
    (たいていは、ワープロ印刷の図書館名でのハガキだが.)


    一方、連絡しても、なんの返信もない県立図書館や、大学もある.




    うれしかったのは、十代に読んだことのある哲学者から、
    もはや高齢の本人がやっと、誠実に書いたであろう、よれた手書きの礼状が来たことだ.






    感謝する人(組織)と、
    

    なにを疑っているのか、未知のものとの接触を拒絶する人(組織)、



    自分の世界を狭くしている者が、


    まだまだ
    たくさん

    この国には在るのだ.




    遠いな、この国の未来に、世界は.





u
( Uppsla Domkirkan )


    
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青春 ── K29限定
- 2012/03/20(Tue) -
老人たちがダンスする映画を観た.



K29 のみんなは覚えているだろうか.

受験の年の高3のとき、体育の授業が、

ふだんの2クラス編成でなく、数クラス単位での、体育館でのダンスになったことを.



無論、その時間も、フケて勉強している者もいたが、

私は、なにか、あっけにとられる思いで流れのままに教師の指示に従事していた.



私がはじめて女性のからだにさわったのは、その時が最初だったのではないか.


いつも私服で来ていた吉川は、私に、あなたは抱き方がうまい、と言い (もう時効だろう)、


ダンスそのものがよくわからない私は、余計に右往左往していた.


そんななか、


たしか、3クラスくらい違うクラスの、たぶん、出席番号で最後のほうの子が時間ぎりぎりで私にあたった.


彼女は、私が気になっていた、しゃべったこともない同学年の子で、


ふつうに義務的に踊り終わって、その時間は終了した.







同級生の中には、同学年の子と結婚した者も多いだろう.


私には、高校時代の女子といって、そんな思い出があるだけだ.



☆☆



若いころは、それはそれですばらしい.


そのすばらしさを、いま若い者たちも知って日々生きてもらいたい.



そして、老いた我々は、


まあ、これから、


まだ、我々も知らない愉しみがあるのかもしれないね.



asura1
(修学旅行で、私は、この像のパネルを買いあさってしまい、
 一緒に帰ろうと言ってくれた同級生とともに動けなかった.
 ごめんよ.MW.
 あの時の阿呆さを、いまも私は引きずっているんだ.)


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出産
- 2012/03/20(Tue) -
私は、出産、に立ち会ったことがない.

それを拒んだ相手たちや、既に終わった相手たちを知っているだけだ.


しかし、それがたいへんなことは、

猫たちが教えてくれる.



ましてや、ヒトは.母たる女性はただそれゆえにのみ尊敬に値する.



*  *  *



いま、沖縄県宮古島では、内地では初夏にあたる気温のなか、つまり、苦痛でない暑さのなか、

驟雨である.


その中、

一匹のメス猫が子どもを産んだ.


彼女は、出産前は、生まれつきの後肢の障害が治ったあともきょうだいや叔母や祖母の最後尾でいたが、

そのせいか、食べるのは、

アメリカ産の脂たっぷりのバラ肉か、乾燥キャットフードばかりで、刺身には見向きもしなかったのだが、



いま、刺身をおおばっている.

きみの、食性までも変える経験をしたんだね.






母親になったものは、偉大だ.
たぶん、この地上で、もっとも基本的に尊く.



s


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環境がつくるもの
- 2012/03/19(Mon) -
我が家は猫の居酒屋のようだ、とは以前に書いたが、私は、家では机に向かうか寝ている以外は、
たえず、猫たちのエサを作っているのだ.

「たえず」 とは大げさな、とおもうかもしれないが、「仕込み」 の時間というものがある.


それらを用意していて、

食事に帰った者から好物を作ってやる.

猫でも、牛豚を食べないで刺身と鰹節しかだめなものや、逆に、脂っこい鶏胸や皮が好きなものや、まちまちで、

飲み物も、粉ミルク、鶏の脂、クリーム、などの配合が違うものなのだ.

子どもがいないから?

島でほかに愉しみがないから?

やつらがかわいいから? いや、賢いから?


まぁ、いずれ、こんなことはできなくなる.

私が再び倒れるか、猫たちが消えてゆくか、その両方か.



昔の恋人たち同様、どんなものにも、時宜、あるいは、シーズン、といったものがある.

料理のタイミングのように、化学反応のように、

あのときだったから……、という 「時」 が.




kta





そうえば、スウェーデンにいたころも猫を飼っていた.
その猫の写真は、私の翻訳書にも載っている.
Huga (ヒューガ) といい (Hugo の語尾を女性名詞語尾に変えたものだ)、私がいたコリドーの
すべての部屋に出入りを許してもらっていた.

無論学生寮は動物禁止だが、

知り合いの女の子ロッタは、体長1メートルはあるオオトカゲを部屋に飼っていたし、
ヒューガがよく遊びにいった隣のニーナはハツカネズミを飼っていた.

Huga
(写真はスウェーデンでの私のベッドだ.)

その猫は、私が帰国直後で家を探していたころ預けた親戚が 「もううちになついた」 という理由で返してくれなくなった.

日本の女友達が、一緒に取り返しに行こうと誘ってくれたが、

私は親戚のそんな言い草も日本人らしいと力抜け、そのまま、川崎の下町にいることになってしまった.
もう、あれから13年になるから、寿命が尽きたかもしれない.
それから数年後、愛するものとの別れが、あまりに多くて、私の心臓も壊れた.




Huga は、私の学生寮の階段で出会った.

だれか、留学を終えた学生が捨てて行ったのだろう.

その後、私と彼女は、一緒に寮の周囲を散歩するようになった.

無論、スウェーデンでは、犬も放し飼いで散歩するから、

私の猫と他人の犬が路上ですれ違っても、犬はほえず、猫は大型犬におびえず、

猫は他のリードなしの犬々とならんで自分の意思でマーケットの前に座って
飼い主が出てくるのを待っていたものだった.


私は、そんな賢い犬は、スウェーデンの調教方法のたまものだとおもっていたが、

Huga は川崎の下町では、クルマや他の猫を警戒して逃げ走っていた.

ということは、Huga は、スウェーデンだったから、あのように、

知的に、優美だったのかもしれない、とおもう.日本に連れてきて、かわいそうなことをした.



ウプサラ大学 (Uppsala universitet) は観光名所のウプサラ市にあるが、

私たちの寮は、自転車で大学から10分ぐらいのところだった.

そこでは、リスが走り、ハリネズミがうごめき、シカがたゆたっていた.


そんなところだったから、

Huga も、知的で優美だったのかもしれない.


としたら、そこで勉強しているウプサラ大学の学生は……


だから、ノーベル賞もそこで授与され、世界から学生研究者が雲集しているのだな.



環境



それは、やっぱりある.


ヒトの頭脳や品格もまた、決定するほどに.


Huga
(スウェーデンでの私の部屋のこの椅子は彼女のものだった.)


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igelkott
- 2012/03/18(Sun) -
       映画 『キッチンストーリー』 を観ると、
       スウェーデン的なものが隣国のノルウェーとの比較でよくわかるが、
       その中で、ノルウェー人が、
       第二次大戦中にスウェーデンがナチスの通過を許したことを非難する会話がある.
       映画の中で、スウェーデン人はそのことを謝罪し、
       拙訳書 『スウェーデン人』 の中でも、そのことはスウェーデン人の悔恨になっているとある.

       それは、「ナチス」 だったから、いま、後悔反省の対象になるのであって、
       しかしながら、それが、単に 「時代の圧倒的勢力」 というだけなら、
       どうだろう、
       スウェーデン人は、たぶん、このあとも、「黙認」 という態度をとらないだろうか、
       と、きょうのような、穏やかな南国の早春の気候の下でおもう.



       ──────



       スウェーデンに行って初めてスウェーデン語を勉強し始めたころ、
       宿題で、
       教師が各生徒に指定したスウェーデンの動物について翌日まで調べてきて口頭発表する、
       というものがあった.
       自己主張が強いアメリカ人の女生徒(名前は覚えていない、彼女は、テキサス大学から
       来ていて、「テキサスが地球最高の場所」 が口癖だった.いつまでたっても、動詞を
       主語の後ろに置く英語式作文をして、しょっちゅうスウェーデン人教師になおされていた.)
       「クマ」 が指定されたり、
       私には、
       igelkott (ハリネズミ) だった.
       
       いま思うと、「ハリネズミ」 的なところは、
       スウェーデン人には多分にあるのではないかとおもうのだ.


       もっとも、その時の私は、専門だった比較言語学的な見方で、igel と kott を分析することで
       割当て時間の大半を使い、しかも、ほかの生徒よりも長時間ひっぱり、教師に叱られた.



       ──────



       陸でつながっているし、
       移住も盛んなのに、
       それでも、「国民性」 という抽象的な語彙には、ちゃんとした実体がつきまとう.


       人はそれぞれ性格もあり能力の向きも違う.
       「国民性」 というものが人の個性によってさらに影響を受け、逆に、影響を与える.


       みな、それぞれで、いいだろうし、ところ違えば人の性質もちがっていいだろう.

       それでも、相手をちゃんと観ることができれば、

       ヒトとヒトの間も、そんなにいざこざがおきないはずなのだ.


t

       
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ブッダもこころいためけり
- 2012/03/13(Tue) -
「ブッダ」 という単語は 「目覚めきってしまった」 の意味を表す過去分詞であり、
ブッダがブッダたるゆえんは、完全に覚醒したからなのである。
(私は、過去分詞という単語を英語から知っている高校生には、その動詞の原形から、その音韻法則を
闡明した人物の1904年発行の分厚い辞書を見せながらこの話をすることで授業を 「脱線」 するのが常だ.
私を知る人は、ああ、あいつはそんなことで大学の教壇で話さないウサを晴らしているのか、と哂うだろうが.)


─────────


ブッダが、他の 「眠ったままの」 私たちとはことなり 「ブッダ」 となった契機が、
漢語で 「愛別離苦」 と書かれる、「愛する者との別れの苦しみ」 を認識したからだと言われる。

愛する者との別れがいかに苦しいかは、むしろ、私たちでもよく知っているといえるだろう。
俗人ならでは、そのような機縁は人生にいくらでもあることだろう。
そして、だれでも、その最大のものは、必ず人生で経験することだ、とも言えるだろう。
すなわち、親、あるいは、配偶者、または、恋人、もしくは、子ども、またはそれと同等の、同棲する動物、それらの死、
などの場合である。


恋人が背中を向けて行くのはそう大きな痛手ではないが、
配偶者や愛する者の死となると、人生にそう何度もあることではない。
もちろん人によっては、自分以外のあらゆる家族の死を見る苦痛を味わう人もいることだろう。
それらの死は、ひとつでも、十分すぎるのに。


─────────


生きて、動いていたものが急に動かなくなる。

生きて、動いていたときに私たちと共有していたものがすべて失われる。

もはや、そこに、いない、のである。

大事にしていたペンや自転車がなくなってもそれを哀惜する人はいるだるうが、
愛する者が動かなくなったときの気持ちはそれとはやはりちがう。



私たちは、一生、この苦しみを忘れることなく自らの死まで生きなくてはならないのである。

いつかは、その苦しみを味わう。

あるいは、その苦しみを味わうことになるという予感を常にあるいはふと抱いてなお生き続ける。


日常は 「眠っている」 私たちにも、

その苦しみは確かにある、真実にあるものなのである。

その苦しみの真実さは、
職場で褒められたり、試験に受かったり、肉体的な快感を味わったりしたときの感情と比べて、
確かに、深く、大きく、重く、そこに、必然と、ある。


それでも、
愛する者は、いまも、動き、まなざしを私たちに向けるだろう。





私たちは、まだ、人生についてなにもわかっていず、




目覚めてみなければわからない、




そんなことが

まだ

まだ

私たちにはいくつもある

それが、

真に目覚めて、見なければならない 現実 なのである。
(2011.10.23.記)



k

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ヒト
- 2012/03/13(Tue) -
例ならどこにでもあるが、
(たとえば、国会中継でも、映画 『猿の惑星 ジェネシス』 でもいいが)
私たちヒトはこの地上で他の生物に脅かされる危険はないが、

その浅知恵と我欲のため、絶え間なく、愚かであり、他者といさかい、己の首を絞め、不幸であり続ける.


どんなに科学が進歩しても、その発見をする科学者が家庭でどのようかはまた別問題だし、

自ら成功者となった者でも、その子どもをもまた自分同様の知者に育てることができるかも確かではないし、

浅知恵と我欲ゆえに平和と幸福を確実に持てないヒトは、

つかの間の成功や安寧を幸福と認め、その価値を謳うが、

そのような喜びよりも不幸の悲しみのほうが深いことは古代ギリシャ人も既にわかっていたことで、

いまさらな認識でもない.



それでも、ヒトは、「悲観主義」 などにとどまってはいけないと生物の本能と浅知恵ゆえに思うから、

「前向き」 であることの価値を押し出す文化現象や、

平和を推し進めようとする組織や(それも多分に、その組織員の生活のための活動でしかないが)、

少しでも過ちを少なくして生きるための思考法を説く哲学や宗教が

何千年も昔からあったのだ.



しかし、浅知恵と我欲が宿痾のようにつきまとうわれら人類は、

このあとも、世界規模でも家庭でも、苦しみ悩み苦しみ続け、

その合間の、

恋人との抱擁、

ひと仕事のあとの酒、

金庫にあふれる財の輝き、

などに幸福を感じつつ、

一人また一人と生を終える営みを、永劫繰り返す定めなのだろう.




子どものころ、

私は、

ニンゲンが来られない岩壁に住むオオワシになりたかった.

一生、一羽で空を飛び、

世界を眺め、そのままいつか塵になる.


三つ子の魂で、いまの私の生活もだいたいそんなものだが、

ニンゲン愚は日本の離島にいるぐらいでは避けられはしない.







世界の幸福を願いたい.

人々の和を願いたい.


願う、

なきものを希求する、

それだけが、

もはや、

私たちヒトに残された、唯一できることなのかもしれない.



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されど我らが後裔へ
- 2012/03/11(Sun) -
きょうこの離島の県立高校の吹奏楽部の定演にいってきた.

私が、私のやり方で英文読解を鍛えた子がいるからだ.

彼は、横浜国大に受かり、しかも、最後のステージでも、よくやった.

島ならでは、あのように、若者を盛り上げるのだとはいえ、

私は、孤独に努力していた都会の子どもだった自分と比べて、ある意味、羨望し、
ある意味、自分はあれでよかったのだとも再意識した時間だった.


◆◇◆◇


私たちは、愚かな存在だ.


食材を開封しようとして指を切ったりするし(製造業者の愚は日本は世界一だ)

利益はほしく、ちやほやもされたいから、不必要に他人の首を絞めたり

思ったことを書こうとコンピュータを起動したら動かず、大事なことを忘れたり、

貴重な人類知の遺産より、来月の自分の給料を重んじて学問の場を足すくいの場にしたり……


こんな愚かな我らがまだアリやイヌやゾウの上位のように地上にいるのは、

その傲慢なほどの自己主張癖のゆえにちがいない.



私にしても、

ウプサラ大学時代に、大学院教授も初見だと言った、

ある教会秘蔵のルーン石碑の dativ の用法で知った知識は、私だけの知識で

それが世界に知られるまではあと数十年か未来永劫ないだろうが、

そんな、「だれも知らない」 叡知は、世界に無限にかつ遍在しているのである.


無限にあるが、だれも知らない

遍在しているが、だれにも知られない



知識とは、

そういうものなのだ.





我ら人類は、少数の知者を除けば、

ずっと、みな、地上最低の


愚か者であり続けるしかないのだろう.


ks



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スウェーデン人が飲む酒
- 2012/03/10(Sat) -
よく尋ねられる質問なので書いておきます.
ただ、以下の文は、あいかわらず、私の主たる知り合いの、
北欧最古のウプサラ大学の学生(主としてドクトラント)と教員の習慣なので、
一般の地方のおじいさんがどんな飲酒生活かはわからないのですが.


宴会では、自分で自分の飲み分はもっていくので、
缶ビール自分が飲む本数、とか、
ジンの瓶にラッパ飲みできるようにジンをオレンジジュースと水などで割ったものを作っていくか、
まあ、そのまま、ウイスキーの新しい瓶をもっていくか、とかです.

外で飲むときは、普通にビールやスピリッツを注文します.

北欧のアクアビットは、私は好きで、日本の泡盛や焼酎よりはクセはありませんが、度数が高いので注意を.

もちろん、ワインもシャンパンも飲みます.
シャンパンは、それとイチゴとパンでお祝いする日、それと海老を食べるパーティ、など決まった時には必須です.


ご存じのように、スウェーデンではお酒は専売所でしか買えないため、

ふつうはまとめ買いをしておいておくか、パーティのある前はそこの列に並びます.
夜パーティがあると、授業の合間にウイスキーを買って昼間ずっと持っていることにもなりかねません.


スウェーデンでは、公共の場所で飲酒するのは法律違反なので、

缶ビールを飲みながら大通りを歩くと警察が来ます.

まあ、白昼酔っぱらって道端で倒れている男性などは、たまにいますが.
そういう人にはスウェーデン人は意外と冷たい視線を送ります.
アルコール倫理は、日本人よりもスウェーデン人のほうが厳格です.


住宅費が日本の1/4くらいで、海外のウオッカやウイスキー、ジンなどは日本で買う価格の3倍以上ですから、

相対的にアルコールの主観的価格は日本の十倍以上とみたほうがよいです.
(『スウェーデン人』 に書いてあるとおりです)


スウェーデン人は男性が女性に 「おごる」 日本的習慣を無意味なこととみなします.

スウェーデン人女性は世界一の収入力がありますし、女性を劣位にみる観方もとりませんから.

しかし、一般に他人の荷厄介になるのを潔しとしない国民性ですから、

おごったらおごり返されます.


まあ、親しい間でスムーズにそこはできればよいのです.


飲み会は、イギリス人やドイツ人がいたほうが盛り上がるかもしれません.


イタリア人や中国人がいれば、食事もかなり考えてくれます.


むろん、スウェーデン人のパーティでは、

時間厳守、マナー遵守

です.


よいお酒を.


s
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またも知る己の愚
- 2012/03/09(Fri) -
私は、

ジャージの二人

という映画が好きで、定期的に観る.

同じ俳優が出ている

南極料理人

というのも好きで、定期的に観る.

しかし、俳優とか、鮎川が好きというのではなく、たぶん、それらの映画のペースが好きなのだろう.

あるいは、状況か.

どちらも、多少の欠乏を感じつつ、
(そういえば、そのへんは、スウェーデンでの留学生生活と似ている.後者は気候までも)

まあ、ドロドロしながらもちゃんと生きていくのが共通している.私は自分がどうかは知らぬが.


◆◇◆◇


きょうは、映画の話ではない.

ジャージ…の中で

「父 54歳   息子 32歳」

とテロップが出るところで、いつも観ている映画なのに、その事実に驚いたのだ.

私もまた、いま54歳、5月になると、55歳だ.

K29のみんなも、そうなんんだよなぁ、しかも、30代の子どもがいてもおかしくなく、
しかも、孫もいる年齢なのだった.

私は、別の記事でも書いたが、

いまだに自分が独り暮らしを始めた二十歳ぐらいの気分で生きているので、

そんな年齢を越えた、いっぱしの大人を子どもにもつ同窓生を想像したことがいままでなかったのだ.


だが、私が昔くらした、「授業参観」 の記事で書いた 「アキラ」 も、


もう、そういえば、とっくに大学を終える年齢になっているはずで、


その後、暮らした少女も、もう高校二年になる.
(その娘とはさっきも他愛ないメールをやりとりしていたが、その自分を自覚していない私とは!)



みんな成長変化しているし、ほんとうは自分も変化しているのに、


自分の感覚は依然として昔のまま……

つくづく自分は阿呆だなぁ、と感じ入った、

あたりまえの週末の夜であったとさ.


s


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