美しいことを学ぶ心
- 2011/05/18(Wed) -
私は、一昨日54回目の誕生日を迎えた。

その夜、私のところに勉強に来る島の中学一年の男子が、私が死んだ猫の埋葬前に発した言葉をその夜家族に思いだし話したそうだ。

1年前、その春に交通事故で亡くなった子猫をずっと冷凍保存していて、私の誕生日である1年前に、その兄弟姉妹が走り回っているバナナの木の回りに埋めたのだ。それを、私はすっかり忘れていたのだ。あんなに悲しんだのに。


その子は、私が、冷凍庫から出していよいよ濡れて蒸した地面に猫を埋めるために部屋を出るとき、
「ケイキチ、行くぞ」
と言ったと家族に告げたそうだ。それが、彼の私という大人へのイメージの固定となったそうだ。

死んで埋められる猫に 「行くぞ」 と言う大人・・・・・・私はどんなふうに彼に映ったのか。


私も、数多くの先人、恩師、親友、恋人のある言葉を鮮明に覚えている。あの人のあの言葉、それが、その人をいまも思い出す全イメージの源だったりする。そんなことは私は自分だけだろうとおもっていたが、若い魂もそんなことがあるらしい。


小さな塾を開いて正解だったのか。

私は、いやまして、若い魂に、何か真実を伝えるよう、しっかりと生きねばならないと思い知ったのだった。



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そうそう、昔の同窓たちよ、

あるいは、スウェーデン時代の蓬髪姿を知る者たちよ、

54歳の私は、いまはこんな、どこにもいるオッサンになったんだ。


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国同士の「格」の上下
- 2011/05/11(Wed) -
どんなものにも 「上下」 の格づけがされるように、残念ながら、国と国との間にも、ある種の 「上」 「下」 の位置関係が厳然として存在する。

「下」 の国の人間が 「上」 の国にいって認められるには、通常、その国の人間の数倍の努力が要ることになる(と 『スウェーデン人 ―― 我々は、いかに、また、なぜ』 の原著者 Gillis Herlitz は書いている)。「上」 の国の社会に認められて受け入れられたら、故国でよりも、高い水準の生活が得られることになる。

逆の場合、「下」 の国へ 「上」 の国から行った場合は、労せずして、自国にいたときよりも高い地位と収入が待っていてくれる(上掲書本文訳まま)。しかし、その国の国民として同化していけるかどうかは、「上」 から来た人間の趣味と人生観の問題になる。

具体的に言おう。

この意味では、スウェーデンと日本では、スウェーデンのほうが 「格上」 である。

その事例がある。

私が仙台にいたとき、ある外国語学校から連絡がきて、日本人生徒とスウェーデン人講師がうまくいかない、という相談を受けた。
私がそのスウェーデン人に会って、原因はすぐにわかった。彼は、スウェーデンでは高卒で、日本人でも外国文学を勉強した者なら知っているような、ヨーロッパの作家や古典の名前さえ知らなかった。
一方で日本人生徒は、大学卒のOLだった。彼女は、スウェーデン人講師と話が合わないのを、自分のスウェーデン語力の不足かと悩んでいたが、要は、いっぱしの社会人とたいして勉強していない高卒生とが話が合わない、というだけのことだった。

そのスウェーデン人は、宮城県ロータリークラブのスウェーデン留学志望生の面接官もしていた。彼は、日本に来て、地位があがったのである。日本のほうが格が 「下」 だからだ。

しかし、日本人にとっては、いい迷惑なのだ。

外国に行くには、この点も考慮に入れて行くとよかろう。
異国で独り自ら、努力に努力して、より実りある生活を獲得するか、
あるいは、自国の 「格」 を頼りに 「下」 に降りていって、自分で築かずとも待ってくれている好条件を享受するか、の二者択一である。


外国で暮らすことの意義と、たぶん、目的も、ほんとうはこんな点にはないのだが、
それでも、こうした物質的現実的側面に左右されるのが人間というものなのだ。



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(本記事は筆者旧サイトにおいて2005年に書かれたものである.)

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スウェーデン的分析力と日本のマスコミおよび大衆 --- サッカー・ワールドカップ後記
- 2011/05/01(Sun) -
(本記事前半は、2006年2月の冬季オリンピックのさ中に書かれたものである.)

私がスウェーデンにいたころ、国民スポーツ・アイスホッケーのナショナルチームのゴールキーパーであるトミー・サロは、国民的英雄だった。
スウェーデンの1994年オリンピック金メダル、1998年ワールドカップ優勝の立役者とされ、さながら、かつての日本のプロ野球の王貞治・長嶋茂雄にあたっていた。

今回のオリンピックには、彼はもはや出ていないようだ。
この記事を書くために、スウェーデンの新聞のスポーツ欄をざっと読んでみた。
彼は、かつての名声をいまは冷静にマスコミによって分析されているようだった。
一度持ち上げたらそのまま浮かれてかつぎっぱなしのどこかの国のマスコミとは違い、客観主義・実力評価主義の徹底したスウェーデンならではの「名声」の推移だと思う。

ちなみに、その新聞では、これもスウェーデン的なのだが、「強いチームにはすぐれたゴールキーパーは不可欠である」という前フリで、ベスト・ゴールキーパーのランキングをしていた。

1位チェコ、2位カナダ、3位スウェーデン、4位アメリカ、5位ロシア、6位フィンランド、7位スロベキア、のゴールキーパーの順でランクづけがされている。
さらに、総合チーム力では
1位カナダ、2位チェコ、3位ロシア、4位スウェーデン、5位フィンランド、6位スロベキア、7位アメリカ
となっている。自国のチームに無責任な持ち上げ方をしないのもスウェーデンらしい。
ちょうど、いまテレビで、キーパーと総合力ともに1位2位を分け合っているチェコ対カナダ戦を放送している。

冒頭のトミー・サロがいたころのスウェーデン・ナショナルチームは、国民に、敗れればあのトミーがまさかの失点をしたと悲嘆の涙を流させ、勝てば味方が苦戦して得点するまでよくトミーが期待どおり相手を零封したと感激の涙を流させ、勝っても負けても、国民泣かせの優れたチームだったことはいまだに私の記憶に確かだ。


(スウェーデン・チームは、その後、金メダルに輝いた。)




スウェーデンのマスコミが上記のような報道の仕方をするのは、ノーベル賞の国ならではの、実証主義・客観的真実重視の国風のゆえだろう。

それにたいして、日本のマスコミの報道の仕方と、それを喜ぶ日本人の体質は、今後、より強いサッカー日本代表を送りだすためにも、変化が必要だと、以前代表監督をしていたさる外国人が論評していたのは、正論を正面から言われることに慣れていない日本人のスタジオパネラーが 「葬式のように」 静かになってしまったにもかかわらず、正鵠を射たものだった。
そして、日本マスコミは、そうした発言を 「苦言」 と題して報道することで、自分たちの扇情的な記事の次位におこうとする。
まあ、日本人は、正確な知識ではなく、気持ちよくさせてくれるものをほしがる種族だからなぁ。


マスコミ・ファンともに、選手にプレッシャーを与えるようでなければならない、とその人物は語っていた。しかし、日本人は、得点を挙げた選手のみを祭り上げ、情動的に舞い上がった人々をさらに煽る、なんら客観性のない、夢想だらけの報道にどっぷりつかっている。確か、日本人の代表監督もマスコミに怒ったというが、これでは、とても、サムライを送り出す母体とは言えまい。サムライがいたとしたら、くだらない持ち上げ方をされるのが五月蠅くて仕方なかったことだろう。


私たち一般大衆がほんとうにうれしいのは、不正確な文章で浮かれ気分にさせてもらうことではなく、本当に、どこの国のチームがどのように優れていて、試合はどのような優秀さと優秀さとの間の戦いになるのか、を正しく客観的におしえてくれる報道であるはずなのだ。


日本人は、いつになったら、自分たちの器に気づくのか。

いつになったら、目 (憧れの目ではなくて、観察する目を!) を世界へ向けて、学んだことを自分の知恵として体現できるようになるのだろう。

ku

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