「エイリアン」
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- 2011/02/25(Fri) -
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「もともと 『エイリアン』 という語は、自分たちの文化や文明とは異質なものをさすことばだ。だから、彼らからみれば、私たちが 『エイリアン』 だ」 (映画 『スターゲイト』 より) 私がいたスウェーデンのウプサラ市は、北欧一に古い大学があるところで、観光名所であるとともに、世界じゅうから留学生が来るところでもあるので、 そこの大学職員も、そこの住民も、自分たちと異質の行動様式をとる外国人を冷笑・軽侮するような愚かなことをしはしない。 見知らぬお年寄りさえ、私に 「この下りエスカレーターは高くて怖いので、手をにぎって一緒に下りてくれませんか」 と頼むほど、『エイリアン』 に対しても平和的で知的なもの言いをしていた。 東京にも外国人がいっぱいいるが、日本人の外国人への接し方には、多分に腰の引けた丁寧さ、というものが存在し、彼らに適切な日本的道義心さえ教えることができない場面が多々ある。 日本の南の離島のいくつかに住んだが、最近よくテレビで取り上げられる沖縄の離島の、生粋の一部の島民や、内地から移住してきた者たちのなかには、 マスコミに持ち上げられた結果の 「この島にいる者はこうでなければならない」 という偏狭で排他的な精神が蔓延している。「エイリアン」 でも、テレビカメラをもち、マスコミとつながる 「エイリアン」 にはもみ手で歓迎する一方で、そうでない 「エイリアン」 は、徹底的に排斥して攻撃する・・・・・・スウェーデン人の場合と比較せずとも、彼らが幼稚に見えるのは私だけではなかったようだった。傷つけられて 「もう二度とこの島には来ない」 と言っていた女性もいた。 幸い私がいまいる島の人々は、島ならではの伝統精神なのか、「エイリアン」 をも 「人間としての表れ方の一側面」 と見るだけの度量があるので、住んでいられる。 |
日本の性教育の未来、日本の未来
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- 2011/02/05(Sat) -
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もう50歳を超えた私の世代は性教育というものをほとんど受けてこなかった。理科の先生が1時間くらい女子と男子を分けて授業をしたくらいだ。しかも、ざっくばらんを装うあまり、いまおもえば猥雑な話であった。
スウェーデン人の性教育は念がいっている。そして、それにもかかわらず、スウェーデン人でさえも性的犯罪をおかすことがあるのも、「スウェーデン人」 で検索して私のこの記事とともに存在する記事の見出しによっても知られる。だが、そのうえで、スウェーデン人はまだ日本人よりは性的に 「まし」 なのである。 性的なことに適切な認識があることで、男女間の問題の多くが解消されている事実を日本人はスウェーデン人を観て知るのが、性教育の第一歩としてはよかろう。 ────── 性教育をまともに受けてこなかったのはなにも私の世代ばかりではない。たぶん、上の世代は言うまでもなく、下の、40代30代20代後半の者たちもそうであることは私が研究室や職場で出会った者たちを見ればわかることだ。いや、インターネットや携帯電話というものがあったせいで、彼らのほうが私よりも雑多で偏頗な情報にさらされて歪んだ結果、もはや度し難くみじめに見える。 私は、30代40代に出会った恋人たちから 「性教育」 を受けたようなものだ。そして、まぎれもなく、スウェーデン人たち全体が、私に正しい性差観を教えた。 日本人や他国民により私のような経験をしない者も日本人には多いことだろう。彼らの異性間は、だれによって、どう形成されるのだろう。私は教師の家に育ったが、私の親も私になんら性教育をしなかったし、家には低俗な情報が放置され、教育的配慮にも欠けていた。 ────── しかし、日本で 「性教育」 をするとしたら、どうすればよいのだろう、それは、私もいつも子どもと接するときに考えている。まあ、自分が自分の性意識を当たり前のように前面に出して若い世代に見せつけるしかないのだ、ということにいつも行きつく。それを、彼らが奇異に感じるだけであろうが、他の大人とは私が違うのはどこに由来するのか探るようになろうが、あとは彼ら彼女らの資質次第なのだが。 異性は人生で出会うニンゲンの半数である。それらと適切な関係を築けないのは不幸であるし、世界を狭くする。 それに加えて、性は生きる喜びとして人生のずっとあとまで、たぶん、最後まで続くものだ。その正しく健全な愉しみ方を知らないことも不幸だ。 未来の日本人が正しい性認識をもてるようになるのに、いまの年よりたちは無論、若い40代30代の教師や大人たちにも期待できまい。 たぶん、正しい性教育ができるようになるのは、これから世界に出て世界の広さを知って目を覚ましたいまの10代の者たちが教育者となったころだろう。それでもまだ早いかもしれない。日本人が公正に世界を観ることができるようになるには、まだまだ数十年かかるであろうから。 日本はいまだ、そしてこれからもしばらく、蒙昧な暗闇を迷い歩く時を経験しなければならない。 |
スウェーデン流の子どもへの接し方
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- 2011/02/03(Thu) -
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「児童虐待」―― タイトルに書くだけでもおぞましい言葉だ. 言霊、というものがあるなら、できれば書きたくさえない言葉だ. たぶん、明日には別語に差し替える.(旧タイトルは差し替えました.) 「スウェーデンにおいて~というものがあるのか」 という問いを受けたから、 その質問者が検索して再びここに来られるように、きょうぐらいはこのタイトルにしておく. そもそも、児童を虐待するとは、どういうことなのか. 日本では、 母親や父親が、自分の子どもを殴打する等の肉体的直接的行為や、 肉親による監禁や差別等の精神的苦痛を与えることを指しているようだ. 質問者もそんなものを念頭においていただろう. スウェーデンでは、 日本によくあるような、 乗り物車内で、なきじゃくる幼児に向かって 「なに泣いてんの! まわりの人の迷惑でしょっ!!」 と金切り声あげて怒鳴るような母親さえ存在しないのだ. では、スウェーデン人の子どもは、マーケットのお菓子売り場でぐずってねだらないのか、というとそうではない. 子どもはどこでも同じだ. スウェーデン人の母親は、そんなとき、ぐずってお菓子の前から離れない幼児と同じ目線にしゃがみこんで 静かに、語りかけるのである. 周囲の人々に聞こえないほどのおだやかさで. この、私があたりまえのように目撃した光景は、スウェーデン人自身によっても明記されている. (⇒『スウェーデン人 ―― 我々は、いかに、また、なぜ』) スウェーデン人は、他者に苦痛を与えること、周囲との調和を乱すことを極端に嫌う. それは、周囲の人が見聞きするだに胸痛むような行為をなすことをも避ける性質へ発展する. とすると、それは、日本的な 「世間体をはばかる」「外面をよくする」 ことと同じように思える. しかし、それがそうでないことは、本ブログの冒頭の記事 「未来は世界を知ることのうちに」 に書いておいた. スウェーデン人といっても、スウェーデン人総体の中には、やっぱり異常な者もいるのは無論だ. しかし、それでも、あの国の光景を一度、実見してみることは価値がある. 自分たちを変革すべきことが、 優れた国民性、というものが確かに存在することが、 日本人にもわかることだろう. ![]() (2010.6.3.記) |
1つでも変わる。もっと多ければ・・・
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- 2011/02/03(Thu) -
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私が、スウェーデンに幻想を抱いている、美化しすぎている、という書き込みがあった。 その通り、当たり前である。 私は、スウェーデンからヨーロッパに出たと言っても、住んだのはスウェーデンだけだ。 スウェーデンしか知らないただの偏狭な人間だ。 その狭い人間が、さらに、日本しか知らない人間に、 たった1つの外国を知っただけでこういう見方もある、と言うのが私の目的なのだ。 だから、私は、これからも、「スウェーデン贔屓」をやめないだろう。 たった1つの外国を知っただけで、こんなに見方が変わる。まして、世界人になったら・・・、 と、私を批判する人は考えてほしい。 (本記事は2007年4月に書かれた。) |
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