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記憶 ─── あらゆる友へ
- 2011/01/12(Wed) -
私は、記憶、というものは連続しているものだと思っていた.

しかし、そうではなかった.



ある時期の記憶がずっと欠落していて、急に蘇る時があるようだ.
そんなことを、昨日、経験した.





私は、どんな土地に行っても、その土地の酒を飲むべき、と思っていた.

だから、スウェーデンにいたときはアクアビットを飲んだし、

仙台にいたときは日本酒を飲んだ.

当然、ここ沖縄では泡盛を飲んでいた.



しかし、この正月から、日本酒を熱燗で飲むようになった.

沖縄にしては寒いのと(気温15℃以下は寒いのだから、スウェーデンの零下20℃はなんだったのか!)

食事の嗜好が和風になったのが原因か.


そんな毎日毎晩を過ごしていたら、昨日の朝、あることを思い出した.



☆ ★ ☆ ★ ☆ ★



私はスウェーデンに住んでいたころ、夏と冬の休暇の時は、日本に出稼ぎにきていた.

出版社で原稿を学生のころから書いていたので、机を与えるから来れば仕事をやる、という出版社があったのだ.


しかし、実家には、肉親親族とのいろいろな軋轢があり居場所はなかったので、

布団を敷く場所だけ貸してもらい、しかも、

朝も昼は無論、夜もいない、という条件で、

早朝、親も起きる前に真冬に冷たいシャワーを浴びてから出勤し(そのころはスウェーデンの冬が後ろ盾にあった)

社員が出勤して来る前から仕事を始め、


夜は11時まで働いて、終電で帰宅、親が寝ている時間にそっと布団1枚分のスペースにはいってしばし眠る、
という生活をして留学費用を稼いでいた.






そんなある年、


こともあろうに、地元の、横浜郊外の実家の駅近くの裏通りの居酒屋を私は知った.


当時、肩まで長髪で、どう見てもまともな勤め人に見なかった私が、深夜、その居酒屋に行くと、


これも当時の私には五月みどりに見えた女将と、あとは常連のオヤジやきたない娘がいるだけの店が私の席をあけてくれた.





あの、自分が子ども時代を過ごした土地で毎夜飲んでいた私と、

そんな私を大事にしてくれていた人々は・・・・・・


もはや、名前も、顔も覚えていない人々、でも、確かに私の居場所があったあのころあの場所




そんなことを、昨日、急に思い出した.



その後の私は、


日本の福岡の恋人と一緒になったり、


指導教授に論文を盗まれたり、


本が出たり、


沖縄でころがったり、


そんなことの連続で、


自分の愉悦の時代をすっかり忘れていたのか.




人生は、どうなろうとも、人がいれば、また、喜べる、たぶん、きっと.




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教師の仕事
- 2011/01/12(Wed) -
教師の仕事は、「生徒を学習にぴたっとはめてやる」 ことにあるといえるだろう.

ぴたっとはめる、とは、生徒の頭脳や精神構造や性格に合った学習方法・内容を教え、そこへ導くことである.
目的にあった素材を与える、ということは、その最も小さくて小手先の段階だ.

少なくとも、大学で修士を終えるくらいまでは、若者の頭脳で差がつくことはないと私は信じている.
差が出るのは、その子どもが、自分にぴったり合った、自分の能力を駆使できる心身状態と環境を得ているかいないかである.それをわかる教師や肉親に恵まれた子は受験に成功し、それなりに軌道に乗る.

例を挙げよう.
ある浪人生は、数学と語学の才能があった.高校生のころから英和辞典の例文を暗記するのが趣味で、数学も難問を探しては解くのを愉しんだ.しかし浪人してからは、参考書に飽きて、岩波全書や日本古典文学大系を読破したりして過ごした.夏休みは、素数の規則性を高校までの数学の知識で解こうとした.大学は、希望の京大数学科に落ち、私立大学の文学部でお茶を濁した.
彼はそこでサンスクリットやラテン語やギリシャ語と出会い、英語・ドイツ語・ロシア語・イタリア語で書かれたそれら古典語の文法書や辞書を使って、数千年前の世界の古典語を読む愉しみを知った.私立大学の副学長から東大に編入するよう勧められた.そして、大学からスウェーデンの、北欧最古の大学へ派遣され、幸福な学問生活を、40歳後半で心臓を壊すまで行った.
彼には、受験参考書の使い方を教える教師がいなかった.だから、数学を専門にはできなかったが、おかげで、世界の古典語のすばらしさを知ることができた.


若者の才能はいつどこで開花するかわからない.だから、私のところにくる小学生の親が自分の息子のことで嘆いても、私は自分の過去をかえりみるに、心配する気にはとうていなれず、中学になれば、あるいは、高校になれば、あるいは大学生になれば・・・きっといつか目が世界をとらえるようになりますよ、と言うのである.

だいじょうぶ、きっと、きみたちは、できるように、わかるようになる、と.


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終りくるまで
- 2011/01/10(Mon) -
人生には、悲しいことのみ多い

昔の聖賢が言ったとおりだ

それは、どんなものにも終わりがあり、消滅が来るからだ



人は、悲しいことばかりでも、

一つ愉しいことがあるとうれしい 悲しみを超えられる

一つの喜びをたいせつにする智恵を人は身につけられる


すべてのものが終わりを告げて消滅する

私自身も例外ではない  いや

栄華をきわめたあの人々も 栄誉を手をしたあの人々も 

本人が味わった喜びの感覚もまた消滅する

栄華は子孫に受け継がれるか 栄誉は後世に語り継がれるか

それが心遣りになるのだろうか 私にはわからない



私が心筋梗塞の発作で倒れたとき 深夜で病院を2軒3軒と断られ、呼吸がだんだんと苦しくなってきたとき

私は死を覚悟し、死を望み、救急隊に 「このまま安楽死させてくれないか」 と頼んだ


いや、そういえば、死は、その前すでに、初めてのことでなにがなにやらわからぬままに部屋で倒れて119番に電話したあと、

静かなビルのドアの床の冷たさに受け止められているときに実感した





愉しかった、な、



という感覚だったのである.



いい人にばかり巡り合った、立派な男を数多く知ったし、よい女に愛される喜びもいくつか知ったし、

勉強生活は愉しかったし、何人かの人には自分はしっかり生きた時期を見せることもできた.


だから、これで、すがすがしく逝ける、とおもって倒れていた.







私はそれから医療技術のおかげで蘇生し、


スウェーデンで夏休みの暇つぶしと日本語恋しさから翻訳した 『スウェーデン人』 という図書が世に出、


また、心臓をする前とは違った、小学生高学年の女の子と疑似父娘のような生活をする経験もした.



むろん、その間にもいやな経験も、というか、いやな経験ばかり続いた、といったほうがいい状態だったが、

とにかく自分の人生に新しいものを加えることができた

この6年ばかりのことである




この次、自分が死ぬときはどんな思いで死を迎えることになるのだろう

聞けば、死の間際には人は断末魔の叫び、というものを発するらしい


自分の死はどうなるのだろう


自分の人生は残りどうなるのだろう


残りとはどれくらいあるのだろう


どれだけ明日から自分は自分を駆使できるのだろう


年とって、社会から許容される行動も、自分ができる能力も、頭脳も、制限が厳しくなってきた

それでも、精神は停滞することは、たぶん、できはしないのだろう


たぶん、また急に、倒れて、死は訪問してくるのだ

あるいは、じわじわと苦痛を与える形で身体の一部の機能をむしばんでくるか


いずれにせよ、

その時に、前回の時のように 「すがすがしく」 死を出迎えられるかは、

あのころのように、懸命に生きて、激しく人を愛していないと無理なような気がする


そうでなければ・・・・・・・・・


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スウェーデンのペット動物
- 2011/01/10(Mon) -
私はスウェーデンにいたころ、猫を飼っていた。

私が朝8時過ぎからの授業に毎朝出かけて、夕方帰宅するまで、猫は学生寮のコリドーに放しておけないので、外に放置したままだった。雪の日も、である。

私が帰宅すると、彼女はどこからか私を見つけて、自転車の鍵をかけている私のところにすっとんできて、ふたり一緒に建物のドアを通り、エレベーターに乗って、私の階で降りる。すると、彼女は私の部屋のドアの前にすっとんで行き、部屋に入ると自分のエサ皿の前でびしっと座ったのである。


散歩もよく行った。ウプサラ大学学生寮のあるフルークスタの森は、彼女のふるさとだ.踏みわけ道を、犬を連れた人とすれちがっても、犬も猫に吠えないし追わないし、猫も逃げない。少なくとも私の猫はそうだった。犬と猫が紳士と貴婦人のようにすれちがった。
そういえば、マーケットに私が入っても、外で、リードのない犬とまじって彼女は私を待っていた。まあ、そこは猫だから、植え込みの中でムシなどを追いかけていることも多かったが。


日本に帰国して、そんなスウェーデン人の犬の調教の仕方を教えようと、当時いた仙台の犬調教の組織に連絡したところ、システムと教程はつとにスウェーデンのそれを採り入れている、ということだった。
しかし、日本では、私がスウェーデンで観た犬や猫は育たないようだ。

まあ、人もまた、スウェーデン人のようにならないのだから、犬だけそうなれ、と言ったところでね。


追記:私の猫は、その後、私が帰国して部屋探し職探しの間あずけていた親戚が、「この猫わたしになついて一緒に買い物にいけるようになったんだから、もううちでずっと飼う!」と言ったきり返してくれなくなった。彼女はいま、神奈川県川崎の下町に住んでいる。沖縄にくれば、昔のように原野を走れるのに。







彼女のことを思うと、彼女をふるさとの原野から日本につれてきた私、私から彼女を取り上げた親戚、というニンゲンのエゴの深さを如実に感じ、また、その他の多くの、自己および他者の愚によって喪失したこともの人の数々を思い出し、つくづく胸が痛むのである。


Huga

(スウェーデンの学生寮の机上:
窓は例の二重ガラスの間にブラインドが入っているもの)


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漆黒の叫びよりも
- 2011/01/09(Sun) -
意志のある人を観たい

そぎ落とした人を観たい

白い纏いの人を観たい

押しつけられても筋力を失わぬ人を観たい

刺されてもうつむかぬ人を観たい

陥れられても前進する人を観たい



群衆よりは隊列を観たい

それよりは無人の都会を観たい

それよりは紺碧の海と空を観たい



観る

観る

観て

ただ、

観照する

行為する力なく

苦悩する矜持もなく

狂奔する慾もなく


すがりついて得たものからの喜びより

背を向けて喪失することの無所有感のほうがややうれしく

だが、それよりも、よろこばない心のほうがさらに心地よく

またさらに、心地よさもなくすことのほうがいっそう..


だから、


動かない

求めない

迎えない

寄らない

精神以外は前進さえさせない



かくて、世界は美しい



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スローな趣にしないでくれ
- 2011/01/08(Sat) -
私が4年前に沖縄に来たころ、何人かの知人は、 『めがね』 (という映画)のように私が生きるのを望んでなのですね、と言った.

私は、何かのように生きることを望む生き方を、つまり、何かに憧れる生を選ぶことなどしないニンゲンなので、その映画の内容を知ろうともしないまま、そんな意見は聞き流していた.

そして、先日その映画を観てみて、やっぱり、これは私の望みではないし、そう言った知人は私を理解していなかったのだとわかった.

「スローライフ」 という単語がある.私は、その本質的な意味を知らないし、自分でも使う単語ではないが、そういえば、その単語は、ここ沖縄についてばかりでなく、スウェーデンという外国に対しても使われる単語であるようだ.

私が沖縄に来たばかりのころ、内地出身で既に沖縄での生活になじんでいた先住者たちは、後から来た私を、そんな 「スローな生活」 に憧れて沖縄に来たものと勝手に決めてかかり、そんな物見遊山気分では同僚として許せない、とこれもさらに勝手に憤慨して当り散らしていたが、当の本人たちが、ずっとぐうたらな役立たずになっていることには気づいていないようだった.仕事をしないで海で遊び夕方から毎日酒を飲んで、NPO団体職員として給料を得ている彼らは、もはや、沖縄、という土地に巣くう寄生虫と言えた.

しかし、内地の私の知人も、私が、こんな、大書店も美術館もないような土地でいったいどうやって生きているんだろう、と不思議がっているらしい.彼ら彼女らからすると、私も、単なる、あの映画の登場人物化を経験しているだけなのだろうか.

「スロー」 とはなんなのか.

東京の喧騒から、というより、人生の混迷をさらに観にくくするだけの肉親や同僚から離れることは、私にはよかった.学会活動も、出版社とのつきあいもなくなったが、まあ、それはそれでよい.
静かに考える、そのための土地に居を構える、ということは許されるだろう.
朝9時から夕方まで沖縄県の公務員と同じ仕事をし、夜からは子どもから大学受験生の勉強の相手をする.
収入は少なく、一日じゅうで自分のための勉強時間は数時間しかない.しかし、私は、それでも、この土地にいることに価値を見出している.それが、私の、静かによく考える 生活なのである.

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家庭 のようなもの
- 2011/01/03(Mon) -
私はこの離島で、なんとなく、学習塾のようなものを始めた.

離島に来て運転免許が必要になり、その講習に通っていたときに、

これもそこの生徒だった女子高生と話しをしているうちに、勉強を教えてほしい、ということになり、

その子が友人をぞろぞろ引き連れて来て、折り合いよいところで月謝を決めて、

自宅の広間に大きなホワイトボードと机と椅子を8脚ずつ買ったことでスタートしたのである.


教案は、予備校教師を辞めたときにたいてい捨ててしまったが、あらたに作り直した.


教えるべきことはアタマの中に依然としてあるから、それで済んだ.


そうして最初は、高校生の英語だけの塾だったのが、やがて、小学生や中学生も来るようになった.


中学の数学ならまだできる.推薦入試の小論文の添削もしてやる.


いつでも、何時でも、事前連絡すれば来てよい


というのがここのやりかただ.


かくして、ここは、小学生から浪人生までが一堂に机に向かったりおやつを食べたりする、

託児所、あるいは、学堂さん 

のようになってしまった. 


小学生の女の子は浪人している女子を 「ねーね」 と呼び、
高校生の男子は中学生の男子に助言を与え、

大きな家族のようなものになった.


もしかしたら、これの状況は、私の、家庭に対する私のイメージを反映しているのかもしれない.




しばらく前、『転々』 という、オダギリ・ジョー主演の映画を1つのコンピュータで環境背景画像のようにずっと流していた.
そのサイトは、全体を4部に分割してネットで流していたが、私は特に第4部を流すことが多かった.

そこでは、オダジョーが息子、三浦友和が父、小泉今日子が母、そして娘役の子もいて、みんなが他人なのに家庭を装っている.


私は、そのようなものでも、家庭、を感じ、それでよし、とおもうのだろう.


私が以前営んだ家庭は、私の恋人と、私と一緒に風呂やベッドに入るのが大好きな小2の男子とのそれ、


もうひとつは、小4から小6にかけての少女との二人だけのそれ、


である.


どちらも、私に、完璧ではないが、子どもをもつ大人の心理を教えた.

そして、平和な夕餉の後の時間を保つことに努力すべき男子の心得もわずかばかり.



いまも、私のところにくる島の子どもたちは、私を 「先生」 などとは呼ばない.


私の苗字に 「さん」 をつけて呼ぶ.島では学校の先生も下の名前で呼ぶのが習慣だから、

私の呼び方は子どもたちには異例な呼称のはずなのだが、その島唯一の呼び方が私には適切と感じているのだろう.


私が昔暮らした男の子も、私を、名前に 「さん」 をつけて、「ジンさん」 と呼んだ.

彼には父親がいるので、私は、彼に、ぼくはきみのお父さんじゃないけど、きみの味方だ、と教えた.

それ以来、彼は、友人が家に来て私に会って 「アキラくんのお父さん」 と呼ぶと、遠くからでも、

「『お父さん』 じゃないの、『ジンさん』 なの!」
と訂正させていた.





私はかくて、私を呼ぶ者たちも呼称を工夫しなければならないような、面倒な生き方をしてきているのだった.



私自身が対人的対社会的に厄介な思いをするのも、また当たり前と言えば当たり前のことだったのだ.


スウェーデンでならば、親のどちらとも、きょうだいとも血がつながらない、という子は普通だし、

私の年で独身で軽々生きている女性たちがいろいろ家に招く男友達をもっているのも性差を越えて人として普通だから、


私のような者は、まだ彼の地のほうが生きやすいのだろうか.


いや、日本には私の愛すべき側面も確かにある.


1年後どこにいることか、まっさらな心できょうも若者を待つ.





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