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同棲者たち
- 2010/10/30(Sat) -
1.親もきょうだいも知らなかった
気づいたら、生きることに懸命になっていた
母親といるよその四人きょうだいの中にまじっておっぱいをもらった
その一家が食物をもらっている家にもまざってあがりこんだ
四人の同年輩のものと一緒になってねむった
保健所が仕掛けた捕獲器に入って血だらけになったが
食事をくれる一家に助けられた
女の子になり、おなかがおおきくなったが、そのままふつうにお産ができなくて命をおえた
sch


2.きょうだいでいつも先頭になって走った
ごはんも壁のぼりもいつも先頭だった
口にはいるものがおちていたのでそれもいさんで呑み込んだら、足が動かなくなった
鼻からが血が出てものが食べられなくなって
食事をくれる家族に抱かれていたので、最後はお母さんも匂いを忘れて寄ってきてくれないまま
他の種の生物に抱かれて命をおえた
k



3.きょうだいではいつも中盤を占めていた
筆頭の男子がすぐになくなったので、食事くれる家族に愛された
家の中で終日すごし、自分だけ母親と一緒の箱でいつも眠った
若者になる少し前、外で不良にからまれ、世間知らずの彼は大けがを負った
そのまま家に帰ることなく、新たな土地に旅立った
us



4.かれはいつもきょうだいのしんがりにいた
食事をもらうときもいちばん最後、注意深く、むさぼらず、おとなしく、なれずにいた
四人きょうだいの中で、妹以外の兄弟ふたりが死亡と旅立ちでいなくなった
妹は元気な子どもを四人うんだ
その妹を、兄弟を追った不良がおいかけまわす
彼は、いつしか不良をもしのぐ大きな男になっていた
注意深さと頭のよさで、不良とたたかう日をまっていた
そして、自分自身の家族をみつけるための旅立ちもちかづいた
かれは、きょうも、姪や甥にまず食事をさせつつ、
自分のテリトリーをまわっている
ma

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異文化は いたるところに
- 2010/10/17(Sun) -
きょう日曜日、私のところに勉強をしに来る小学生の野球の試合を観に行ってきた.

沖縄の離島とはいえ、もう炎熱の日差しもゆるくなった.

その子どものお父さんに声をかけられ、

野球を観ながら、雑談をしていた.


その子どもは四人姉弟の末っ子なので、お父さんも私よりも年上だが、

私たちが座っていた大木の回りを飛び交う南国の野鳥に目をやりながら、

子どもの頃には、食用にサシバが足を縛られて売られており、

子どもは、目をみて、若い鳥を買って、

足に長い紐をつけ、その端を下駄に結わえ付け、飛ばして遊んだ、と物語っていた.

青みがかった目が若く、それが金色になり、年よりは赤くなるのだそうだ.


私には、とうてい体験できないできごとが、同じ日本の中でも、かようにいくらでもあるのだった.


人は他人の人生をわかりきることはできないし、

自分の人生を他人のそれと比較することも、

さらには、その結果、自分に優越を感じることも愚者の行為以外なにものでもない.


人は、どんな他者をも、その存在を認めるところから、自分の存在を始めなければならない.




私とそのお父さんは互いにのんびり休日の子ども野球観戦をしている点で気分に共通点があったが、

経験・知識・習慣が違ううえに心の在処・気分もまるで違う人同士が一緒に生きるのが人間の人生なのだ.


『世界最速のインディアン』 という映画を、人に勧められて観てみた.

主人公は、やりたいことをし、言いたいことを言う老人(アンソニー=ホプキンス)だが、

彼もまた、偉業をなすには、いや、偉業こそがあまりにニンゲン的な所産ゆえ、
多くの人的物的障害にもまして、
さらに多くの人々によって支えられ、愛され、とり巻かれて生きていた.


この世に、人と離れて生きる場所は、もはや、ないのかもしれない.

むしろ、人とよりよくより尊く生き合うことこそが、

今の時代の人間的なことなのかもしれない.



ch


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文化の移植は効ならず
- 2010/10/13(Wed) -
いまだに、「日本もスウェーデンの教育を採り入れるべき」 という発言がでる.

本ブログをお読みになれば、日本人がスウェーデンの教育制度(性教育や大学教育の無償など)を採り入れたからといって、スウェーデン人の若者のような世代が生まれるとは到底考えられないことはおわかりになろう。すでに、日本人とスウェーデン人とでは、思考習慣、感情の在処、といったものが生まれて成長してくる過程で全く異なってしまっているのだ。性教育ビデオさえポルノ扱いするセックス産業真っ盛りの日本にスウェーデンの教育を採り入れたところで、それを消化する胃袋は日本人の生徒にも教育者にも備わっていない。


しかし、日本がこのままいつまでも、偏狭で、すぐれた者へのコンプレックスばかり根強い、性に関する事柄をい垂涎の的にし続ける、憐れむべき民族のまま未来もずっとあり続けることは容認してはならない。それは、私たちの後の世代の幸福のためにも。


若者が見知らぬお年寄りの手も街中・公共施設でもふつにとれるような、あるいは、それをお年寄りが恬然として恥じることなく要求できるようなニンゲンに日本人が変化しなければ、スウェーデン流の教育もできはしないし、スウェーデン人の制度を使いきることもできはしないのだ。

あの国の民も、長い年月をかけていまのようになってきたのだ.

日本人はなんでも外から採り入れるのは得意だが、

ほんとうに本家の精神を体現できた事例が過去の歴史にあったのか.

そろそろ、ほんとうに、

日本人は、

成長の道を、

独自の努力で歩んでゆかなければならな時期にきたのである.


az


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違和感さえも同じではない
- 2010/10/12(Tue) -
スウェーデンで友人とテレビを観ていたら、彼が唐突に

「日本では、特定の外国人俳優専門の声を出す職業があるんだって?」 と私に尋ねた.

スウェーデンで観る外国映画は、テレビでもビデオでも、画面の下にスウェーデン語の字幕が入る.

外国人俳優はほぼみんな英語で話しているので、

私は、英語を聞きながら字幕のスウェーデン語を書きとって口語表現のバラエティを増やした.



スウェーデン人の友人は、

日本では外国人俳優もみんな日本語で話しているのか、

と笑ったが、

私にすれば、

映画の中では、アルテュール=ランボーもフィンセント・ファン・ゴッホもドイツ軍将校も英語を話していることが

日本語の吹き替え同様に滑稽なのだ.

せっかくフランス語の勉強をしようとおもっても、レオナルド=ディカプリオは英語でしか話さない.

まあ、彼ら俳優自身の声ではあるのだが.



それなのに、スウェーデン人の彼が日本語の吹き替えを嗤うのに、

英語で話す 「フランス人」 や 「オランダ人」 や 「ドイツ人」 に違和感を抱かないのは、

所詮、彼ら、印欧語民族には、英語は自国語にとって 「一方言」 に過ぎないからなのだ.

トム=クルーズも、ドイツ語風にアクセントをおいた英語を話せば、ドイツ人将校っぽくなれるのは彼の演技力もあろうが、


私のような平凡な日本人でさえ、

スウェーデン語に習熟すると、デンマーク人ともノルウェー人ともアイスランド人ともスウェーデン語で話せるし、スウェーデン語の知識で相手の言う語彙の98%ほどはわかるのだが、

それが、オランダ語になっても、ドイツ語になっても、はては、

語派が異なるフランス語やスペイン語などになっても、

似たようなもので、英語で話すゴッホも自然なのだろう.

映画 『リスボン物語』 では、ドイツ人の主人公が車でポルトガルに旅する過程で、

車内でポルトガル語会話テープを聞いてポルトガル語をかたことでもしゃべるようになる場面がある.

それが、同じ、印欧語を話す民族(インド・ヨーロッパ語族)の言語感覚なのである.


shm


◆◇◆◇

言葉ひとつをとっても我々ニンゲンの抱く違和感はこのように異なるのである.

ましてや、思考方法とか、善悪の価値観とか、人生観とかとなると、

同国人同士でも異なって当たり前.

私たちは、本来そう容易には認め合えない者同士でありながら、

隣人関係、同僚関係、上下関係などさまざなな関係を営んでいるのである.


ニンゲンであることはむずかしい、しかし、それは、なにもいまさらのことではなく、

古のゴータマ=シッダールタやソクラテスたちも命をかけて問題としなければならなかったことなのだ.



ヒトよ、汝は


誠実に生きてしかるべき


苦悩してしかるべき


重き一歩を運んでしかるべきなのである



kissen


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若者に告ぐ
- 2010/10/10(Sun) -
私は特に教員免状をもっているわけでもなく、教育学部の卒でもない.
それで私塾を開いている.


私の知人で教師の女性がいるが、研修や勉強会で忙しい.その話をきくにつけ、生徒と接するということは、単に知識を教えるだけではないのだ、と実感する.


それで、私も、時間があるときに、教育学とか心理学の知識をひもとくことがある.


嘱託をしている職場(決して 「教育」 関係のところではないが)でも、これから日本の教育はどうなるのだろう、とお心をくだいていらっしゃる人がいる.私はここで、若者に 「世界に出ろ」 と言っているだけだが、教育の場の問題点は子のいる人にはつとに切迫していることなのかもしれない.


もっとも、先日、
「最近は、アメリカに留学する日本人学生が激減している」 ということを問題視している人を知ったが、
それは、なんのことはない.アメリカが唯一の世界ではないからだ.

むしろ、ヨーロッパに行く学生が増えたほうが日本人にとってはよいのだ.そこが、世界で最古の知的遺産を伝える土地だからだ.

それに、自然を相手にする学生ならば、東南アジアでも、アフリカでも、南アメリカでも、行って修業してくるにはたいせつな場所のはずだ.


若者たちよ、世界を自分の舞台とせよ.


日本の中で 「勝ち組」 など目指しても、きみの人生は真の輝きをもたないし、

永遠なる価値にも連ならない.


世界に出よ、若者たちよ.


uniann


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経験主義者の辞
- 2010/10/09(Sat) -
たとえば:───

どうして、勉強に来る島の子どもを私の世界基準で叱ると親がまず先に癇癪をおこして子どもを引き上げてしまうのか当初はいぶかしんだが、

私が血のつながらない子どもと暮らした時、
母親が必要ないと言っても、私は彼を校門まで送り迎えし、
彼が学校でへこんできたら、その理由に関係なく学校の管理に腹を立てたりした.

そんなことを思い出すと、

自分の子どもの悲しみはどんな理由でも許せない、と
事の当非に関係なく感情的になる島の親の反応もきわめて自然だと理解できる.



◆◇



どうして、私が職場や研究室で出会った若僧たちは、嘘を喧伝してまで私を陥れようとしたのか不思議だったが、

自分が50歳を過ぎて、仕事を探しに職安に行ったときに
どんな仕事でもそれに懸けようといちずになっている自分をみて、

彼らも、私よりも20年くらい早く、

自分が生きるためには他人をどう始末しようとも
これが自分の唯一の生きるよすがだと必死だったのだと、そしてそのために、自分を押さえる私のような、あらゆる点でかなわない(と周囲が言う)相手をどんな手をつかっても(あたかも無法都市の住人のように)排除しようとしたにすぎないのだと理解できる.



◆◇



どうして、あの教授はあんな非力なたかが修士課程学生に奨学金やいろいろな便宜をはかっていたのか疑問だったこともあったが、

自分が猫を多数飼うようになって、
すべての猫を腹いっぱいにさせられないし、エサの種類と量にも限りがあるため
産後か、野良との喧嘩で傷を負っているか、食欲がないか、などの相手の状態に鑑み
どの猫にどんなエサをいつ与えるかにランク付けをするようになっている自分をみて
そしてその根拠が、単純に自分の思いこみと好悪の感情にすぎないことを認識し、

人の組織集団の中で

他者に序列をつけるのはたのしいし、この序列のほうが自分には心地よいから、
権限のある上の地位のだれが下位のだれを取り上げようとも他者がとやかく言うことは意味がないことだとわかるようになった.



・・・・・・・・・・というような例からもわかるように、
人は、経験しなければわからないことが人生にはたくさんあるものなのだ.

だから、私は、お年寄りの話は好きだ

年輩者には一様に無条件に敬意をはらう

(無論、すぐれた若輩者もいる.しかし、若いものすべてがそうではない.
だが、年輩者の知は、すべて、私たちの人生知を越えている.
それらは、私たちが、「これから」 知ることになる事柄だからだ.)



年齢を重ねた人々、それは、

ただそれだけで、人類の財産のはずなのだ・・・・・・



sch


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