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教育者
- 2009/12/30(Wed) -
島の、私のところに机を使いにくる子どもが成績をもらう時期になり、
親御さんからその結果についての相談を受けざるをえないことがある.

ある小学6年生の担任が、親御さん宛てに、この子は中学になったらどうしようもない子になるでしょう、とか、
努力してもこのような態度ではみんな台無しです、とか伝え、親御さんは心配で仕方なく私を訪ねてきた.


私が親御さんに言ったのは、

どんな教師も人間である以上、怒りを発することもあるし、成績を自分の感情からつけることもある.

所詮は人間が人間を評価できるはずはないので、先生の意見も一他人の意見とおもっていなさい、

ということだった.


◆◇◆◇◆


人間が人間を評価できはしない.


しかし、学校教育を行う以上、入学試験はしなければならず、成績もつけなければならず、
それで、教師がその選抜・評価の権限を与えられているだけなのだ.

だから、ある学校に拒否されても、別のもっとよい学校で受け入れられる生徒もいれば、
ある教師に徹底的に否定されても、別のもっとよい教師から最大の評価を受ける学生もいる.
一人の恋人に去られても、別のよき人間に愛されることがあるのと同じである.


◆◇◆◇◆


それにしても、教育は、昔のギリシャ人が言ったように、
身体を治療するのが医術であるが、それ以上に、若者の精神を陶冶する作業として重要だろう.

そして、人間の教育を人間が行わなければならない以上、教師の精神の陶冶もまた重要になる.

だが、昔のギリシャ人たちもソクラテスを死刑にしたように、

人はやはり人を正しく理解し、評価することは永遠にできないのかもしれない.


ここに、人類の未完成の大きな一因がある.


それでも、私たちは高みに目をあげて前へ進む心がけを捨ててはならない.


私たちに、あとに続くものたちがいる以上は.




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言語感覚、すなわち生存感覚
- 2009/12/07(Mon) -
私が Gillis Herlitz Svenskar を日本語訳したのは、ウプサラでの夏休みの暇つぶしからだった。




私は、所属した日本の大学 (修士課程が早稲田大学、博士課程が東北大学) にも、また東京の企業にも

そこにずっと居続けたい、と願ったことはないが、

スウェーデンのウプサラ大学の研究室は生涯の場所になることを願った。

論文を出しに一時帰国したつもりの仙台で身体をこわしたが、

そこでは、思いがけない、もっと大きな体験をした。

私は、日本に帰ってきたら、なにか、頭の前のあたりが眠り込んでしまったような感覚に陥ったのだ。



それが、仙台という、旧伊達藩の土地にある旧帝大の研究室がもたらしたものならいいが、

どうやら、そうではなく、

スウェーデンで、スウェーデン語・ドイツ語・ロシア語・ラテン語・英語を使い分けていた脳が

急に、日本語だけで、脱力してラクに生活するようになった結果、

頭脳が休眠状態にはいってしまったかのようで、

つまり、何を読んでも、何を考えてもぼんやりした霧が脳にかかったようで、

まるで、腰まで水につかった状態で駆け足をしているときのようなもどかしさを感じた。

それは、以前の人生では未体験の感覚だった。





そして、きょう、字幕のない外国映画を久しぶりに観て、それを理解しようと精神が覚醒したのを感じ、

外国で暮らすということは、登山をすることにも似た (私は二十代に社会人山岳会に所属していた)

周囲の環境すべてと対峙するような自由と興奮と

すべてが自分の力次第、という喜びが生活の根底にあるものなのだと思い出し、

母国語以外の言語を理解するということは、あらゆる感性を全開にしないといけない、

ということもまた思い出したのだった。


さあ、これから、自分自身を覚醒させ続けるために、私はどうしようか。



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(筆者2007年夏撮影) 


(09.6.22.記・改)


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吸収発展
- 2009/12/07(Mon) -
私が翻訳した スウェーデン人 という図書がある大学の学生選書100冊に選ばれた.
あのような図書に興味をもってくれた大学生たちがいるとはいささか意外だが、
これも、スウェーデン、という国が人の気持ちを引いたからか.



そうして、選ばれた他の図書名を漫然と眺めていて、

《みな、どの著者・訳者も、自分の図書がその分野で第一等のものだ、という自負をもっているのだろうなぁ》

と感じてしまった.(失敬!)



書を著す、ということは、どういうことなのか.
それは、目的はどうであれ、自分の内側から《出す》作業なのだ.
芥川龍之介は、執筆後の疲労を 「房後の疲労」 と表現した.
私もまだ、何か出せるかもしれない.いや、これまで、英語関係の学習図書を無茶な日程で書かされてきた私としては、
あの程度の苦痛を耐えるだけなら、北欧関連でいくらでも書けることはあろう.
吉村作治先生のタイトルに倣って、『ルーン石碑で学ぶ バイキングの世界』、とかもありだろう.


しかし、私は、《出す》よりも、《吸収》する者でい続けたい.

私が書けることは、いずれ、数年~数十年後にはだれかが書けるようになるはずだし、そうでなければならないものだ.




それよりも、私は、吸収して自分が学ぶ立場のほうがおもしろい.



吸収しなければ、自分が発展しようがないのがわかっているから.


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