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無為ながらも
- 2009/06/28(Sun) -
ヒトはまだ世界のことがなにもわかっていない

世界に自分たちのせいで問題となっていることをよくすることもできない

ヒトはどのようによく生きていったらよいかについての答えもまだもっていない

だからヒトはヒトを、また他の生き物を、また世界そのものを害せずにはいられない

もともとヒトの知には限界があり、欲望にしたがう存在であるのだから

世界をどうにもできず、互いに汚し合うのも当たり前なのかもしれない

ただ、美しいもの、真実のもの、よきものがあるということがわかる頭脳をもっているばかりに
それゆえ、いたずらに、現実と理想の間で悩んでいるだけなのかもしれない

それならいっそ上へ向ける視線をすべてやめて

低劣な笑いと酒色に耽溺して人生を過ごそうか

じっさい、それらに浸り続けてなんともおもわず人生を終えるヒトもいるだろう

そうできないで上を見ようとあがくヒトは

くだらないヒトの群れからつまらない非難を浴びていっそう苦痛を増すだろう

では、どうしようか・・・・・・

やっぱり私もなんら答えをもっていない愚なるヒトのひとりにすぎない

そうして、もう半世紀以上生きてしまい、やがて生も停止するだろう

いまの私にできるのは

ただ、未来を祈ること、未来のヒトがよりよく進化するよう願うこと

その希望を持ち続け死ぬことで、

それがだれかの頭脳か心情に、どこかの土地の精神になんらかの痕跡をとどめ

ヒトが上を見続けることの力への海辺の砂ひと粒分でもエネルギーになればよい

そう希望し続けることで残りも生きていくしかないだろう


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(筆者2007年夏撮影)



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文化の違いを認められぬ者たち
- 2009/06/27(Sat) -
ここ沖縄の離島では、もう高校生になると、女子は日傘をさして登下校する。

黒い日傘を白い制服のシャツにさして歩く長い黒髪の集団は内地では見られない。



その子たちが内地に行っても黒い日傘をさしているとは思えない。
たぶん、それは、こことは日差しの強さが違うから、と本人も半分納得し、
半分は、「だれも周囲はそうしていないから」 ということで納得するのだろう。

しかし、内地でも、強い日差しの日々はあるだろうに。



これで、黒い日傘を内地でさす女子大生がいたら、きっと周囲から違和感をもって見られるだろう。

場合によっては、ひやかしや、いじめの原因になるかもしれない。たぶん、そうなる。



私がスウェーデンから帰国したころ、仙台という土地に住んだころのこと、
空気が澄み、強い日差しが東京よりもスウェーデンに似ている土地だったが、
私がスウェーデン人学生ならだれでもするようにサングラスをして登校したら、
大学院の、私より年下の学生からひやかしのいやみを言われた。
長髪を後ろでゆわえて自転車で登校していたことで、バスの中の高校生の集団から口笛をふかれた。

これを、仙台という、まだ旧弊なところが残る土地だから、という説明ですましてもよいかもしれないが、
(たぶん、東京では目立たないことだろうが)
やはり、日本という土地に住む人間の特徴的な態度だとも言えるだろう。
いまの島に移る前にいた八重山の小さい島でも、そこの自称研究所の内地出身職員たちもまた、私の言動に対して仙台の学生たちと同じ反応を私に示したからだ。(彼らは、仙台の学生たちよりもずっと幼稚な精神の持ち主ではあったが。)



これが、「島国根性」 ということなのだろう。



外国人が往来することが当たり前のヨーロッパでは、自分たちと違う文化を示す者を排斥・攻撃の対象になどしない。(もちろん、日本にも、沖縄の離島にも、自分と違う者を認める度量ある人々も多い。)



同じ島国でも、イギリスやニュージーランドはどうなのか、私は知らないが、
余所はともかく、日本人は、まず、こうした狭い視野を広げることから真の 「開国」 をする必要があるだろう。



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(筆者2007年夏撮影)

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スウェーデン人男性
- 2009/06/26(Fri) -
私が知るスウェーデン人の男は、寡黙な者が多かった。あの寡黙さは、日本人にはないもので、テレビのアメリカ映画などにもいないキャラクターだ。しかし、それが高い割合でいたのがスウェーデンだった。

私が冗談を言うと、くすりと笑う。場合によったら、声もたてずに。
ふつうに話し合いをするときは、たいてい眉根にしわをよせている。
ともに食事をするときも、おいしいともまずいともいわず、食欲を見せず、牛が草をはむように静かに食べる。
女性を見て性的な発言を一切しない。性差を感じていると思わせずに(あるいは、本当に性差を感じていないで)行動する。
身なりは質素。ぼろを着ることも頓着しない。
金の支払いは堂々としている。みな、自分の責任で有限の金銭を得、消費する国だから。「すねかじり」 はいない。

もっとも、私の親友は、ドイツ系移民の2世で、上のすべてがあてはまったが、ただ 「寡黙」 というところだけが正反対だった。鉛筆を口にくわえたまま猛烈な勢いで私に話しかけ、私が答えるよりも早く次の話題に行くような男だった。その男も、長年片想いだった娘と結婚でき、女の子も生まれたというメールがきた。  (本記事は2008年3月12日に書かれた。)


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最後の独り、ただ独り知る愉しみ
- 2009/06/20(Sat) -
ある映画を観て、ある土地へ移ってきた主人公が周囲から、
「おまえがここに来たのは女目当てか、それとも、男目当てか」 と聞かれる場面があった。



私が先の狭い八重山の離島に移ったさいも、同じようなことが言われた。
もっともそこは、映画の中よりももっと人口が少なく、
私にそう言ったのは若い、私と同じ内地からの移住者だった。



私とは精神構造が何億光年も隔たったその相手の(それが自称研究所の同僚 「職員」 だった)せりふに、

私は、これらの人間を相手にしても無意味なことと

まあ、世の中にはこういう人が多いのだろうが、私にはここは場所ではない、

ということが南国の夏の朝日のように明瞭にわかった。私がそこをあとにしたのは半年後だ。



*  *  *  *  *



同じ映画で、主人公が 「地球で最後の人間になったら生きている意味がない。だれとも話すことができなければ生きている意味がない」 と、孤独から自殺を考えていた。


私は、地球で文字どおり最後の一人になりたい人間なのだ。


世界の悪をつくりだすものが消滅して、


地球が自浄作用を始めてどんどんいまの世界が崩壊してゆくことを目撃できたら、


もっとも、そのためには、火の鳥の血でも飲まないとだめだろうが、


世界の美しさを、見て、聞いて、感じて生きていきたい。


人は好きだし、たぶん、まだ女性も愛せるだろうし、他人がいなければ、思ったことを記録している意味もないかもしれない。



しかし、それでも、私は、自分の思想を伝える人間がいなくなっても、

愛せる者が存在しなくなっても、

生活のための必需品がなくなっていっても、

この地球上でたった独りになっても、世界を観つづけていきたいとおもう者なのだ。




世界を知るため? でも、独りなら、知ったところでどうなるのか、って?

「知る」 ということは、人のためではないのだよ、諸君。


いまも、世界で私しか知らない北欧のルーン石碑の解読法がある。スウェーデンのあの教会が非公開で所蔵していたルーン石碑の解釈は、私の説にウプサラ大学の大学院教授も驚き喜んでいたが、私には、そう考えるべき根拠を、他のゲルマン諸古語、ヴェーダ語・古代ギリシャ語などの事例を証拠として示すことで証明できる。


だが、私は、それを、だれにも、どこにも発表しない。しようとおもったこともない。自分が知りたかったことがわかるようになったことで、もうこの上なく充足しているからなのだ。それに、上記の諸言語を私と同じレベルで読める人は、前世紀はいたろうが、いまは、どこにいるのかわからない。


自分の知ったことを使って地位やお金を得ようとすることは、その知に至るまでとはまた違った作業だ。そして、私は、知識獲得のあと作業には興味がまるでないのだから、これでよい。人生や世界には無数無限の秘密があり、人知が解明しているものはその極々僅かにすぎなかろう。ある人のみが気づいている世界の秘儀や人生の美は、それが人々に知られなくともこれからも存在し、それを知っているただ一人はそのぶんきっと少しだけ人生が深く豊かになる。



映画 『ザ・ロック』 で、ショーン・コネリー扮するスパイが世界の重要事件の真相や要人のスキャンダルを集めたマイクロフィルムをもっていた。彼は、それを自分を助けてくれた礼にと、ニコラス・ケイジ扮する科学者にあげてしまう。もちろん、もらった科学者も、それをみて、「すげぇーーーー!! これは世界の秘密の宝庫だ!!」 と高笑いするだけだった。



知る、ということは、そのようのものでよいのだ。

ただ、自分の愉悦のために知識を蔵している、ということで。



*  *  *  *  *



それと同じような気持ちで、世界を、たった独りになっても観つづけてゆきたい。



だれに遺すこともなく、だれに読ませることもない発見や感慨を自分の中にみつけ、


それをたいせつにする。





私は、そんな人生を、ここ沖縄の離島で、それにやや近い形で送らせてもらえている。




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祈る
- 2009/06/18(Thu) -
彼女たちの横顔を見ていると、ただ、祈らずにはいられない.



*  *  *  *  *



私のところに島の子どもが机を使用して勉強をしにくる.
小学生や中学生や高校生、浪人生たちだ.

結婚したことのない私には自分の子どもがいないが、
以前、小学2年生の男子と、その後、小学4~6年生の期間の女子と共に暮らしたことがある.
しかし、中学3年や高校生くらいの大きな子どもをもつ親の気持ちは私には計り知れない.



いま私のところにくる高校生以上はなぜか女子ばかりなのだが、
英語の文法問題や数学の問題を解いている彼女たちの横顔を見ていると、



親が大きくなった子どもを見るおもいというのは、もしかしたらこんなことなのかもしれない、


とふとおもうことがある.



*  *  *  *  *



十代の終りに、外国語の中の英語という言語のこんな言い回し1つを覚えることに全霊をかけている彼女も、


やがて、大学での勉強、論文、就職のための勉強、職場での勉強、など、
もっと幅広い、奥深い勉強をすることになる.
さらに、友人や恋人、教授や職場上司などとの接触にも頭悩まし、
化粧も覚え、みなりにも気を使わざるをえなくなろう.


そんなこの子に、私はなにも力をかしてやれない.




ただ、いま、接する期間に、のちの人生のために役立つようななにかを1つでも伝え、
広く明るい人生の展望を与え、


そして、ただ、この子がよく人生を歩めるよう、祈るばかりである.



ただ、まなざし与えるだけなのである.



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(筆者2007年夏撮影)
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きみらはきみらのなすべきことを
- 2009/06/06(Sat) -
私がいる宮古島の遺跡から発見されたネズミの化石が、
本島などにいるケナガネズミのものとは異なるものであることがわかり、
「ミヤコムカシネズミ」 という別種と認定された.
この結果、これまで陸続きとされていた琉球列島が、
宮古島だけにハブがいない、珍種のカエルが存在することとならんで、
今回の化石の証明から、宮古島のみ陸続きではなかったと考えられるという.


私のところに 「気晴らし+勉強」 に来る子どもたちの中には、
絶対に内地の、自分が活動したい都市の大学に行くと決めている子たちがいる.
無論、私は 「広い世界を観よ!」 というのが常の意見なので、そうしろ、とそういう子には言う.

逆に、そういう子たちは、世界を知ってきた私がこんな離島にいることが不思議なようだ.



なんでもっと給料のよい内地の会社で働かないの? とか
どこかの大学で教える場所があるんじゃないの? とか
もう外国で研究はしないの? とか尋ねられる.


きみら、私の 「弟子たち」 よ、
きみらは、これから自分を形成するために、1つの場所にいることより
世界を観てあらゆる場所の知識とその限界、自分の可能性を探る必要がある.


私は、一個人として私に与えられた機会は可能な限り生かして勉強してきた.
これからは、きみらを送り出す役、そして、もしできれば、
自分の中にあるものを汲み出して何かの形にする作業をするために、
ここ、雑音のない場所に来たのだ.
私と接する期間、私のふるまいからも、何かを学べ.


――――――――――



先の化石を所蔵している県立博物館の職員が、
「宮古島からこの分野で世界的な研究者が出ればいいな、とおもいます」 と述べていた.
私もまったく同感だ.


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飛沫となった人たちへ
- 2009/06/04(Thu) -
もちろん私はこれからも覚醒を続けなければならないが、
きみたちとともにいたころよりは、自分の実相と存在意義にいまは覚醒した.


私がこれから生きる世界に、きみたちは路傍で腐りゆく鳥の死骸ほどの価値しかない.
きみら、かつて同僚の私を虚偽讒言により排斥し、私の功績を盗んだ者たちよ、
きみらが愛した地位や金や名声は、私には既に無価値だ.
いまの私の世界に、きみらは芥子粒ほどの居場所しかない.
ニンゲン的悪と愚の一典型を考察するときの材料にはできるだろうが、
私の頭脳は、よりよきこと、より未来のことに捧げられてしまうので、
きみらはもう後方に跳ねた泥飛沫に過ぎない.
きみらの習性として、いまの私をもしつこく陥れようとするだろうが、
どのようになっても、私の視線はきみらを顧慮することはない.
世界はこのように希望に満ち、前途有る者たちが自分の力をためているとき、
私たち年輩者がそれを励まし力づけ導くこと以外なにに努力すべきだろうか.



出番を待つ者たちよ、さあ、私の言葉も聴け.私は、きみらの足音にのみ耳傾ける.


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抑鬱された人々の行方
- 2009/06/03(Wed) -
[私は、いま学習塾で小学生から大学受験生までを相手にする立場だとは言っても、教育を専門に学んだわけではない.私の知り合いの学校教師は、休みの日でも、その方面の研修に出かけたり、勉強をしたりしている.そういう専門家からすると、以下の私の見解も噴飯ものかもしれないが、とりあえず書いておく.私は、未来をになう世代を相手にすることを仕事に選んだし、その際、私は、自分の人格と、自分が 「人にとってよきこと」 をおもうものを信じて言動するしかないからだ.]

私はテレビをもっていないがコンピュータがあるので、テレビが提供するものをある程度しっている.
そして、私は別に聖人でもないから、いわゆる娯楽番組といわれるものを眺めてみることもある.
深夜に放映されているらしい、バラエティ番組といわれるもので、
司会者が出演している若い女性たちを一方的に怒鳴りつけ、たたき、無能呼ばわりし、
その出演している女性たちの間でも、「殺すぞ」 とか 「なぐるぞ」 といった罵声を浴びせあい、
それで番組の背後では大笑いが聞こえる手のものを観て、考えた.



まず、スウェーデン人に慣れた者として、他人をどのような理由からにせよ、たたいたり、
根拠なく無能よばわりしたり、「殺すぞ」 等の発言をすることを正視できない.
あの国では、皆無な現象だから.



そして、その番組の視聴者が、深夜の疲れた日本人たちだとして、
そうした、外国では信じられないようなものが喜ばれる土壌をおもってみた.
日本では、弱者を、あるいは、特定の相手を攻撃することで己の鬱屈を解消する人々がいるのか.
それは、学校や組織のいたるところに見られる現象なのか.
私が以前いた八重山の自称 「研究所」 の内地出身職員たち(男性)もまた、
内地から自分と同じように、なんら かの関心をもって南の島に来る男性たちを、
特に、それが研究者など知識人であればあるほど攻撃して喜ぶ習性があった.
地元の人々とは確実に異なるそのような性質を彼らがもつにいたったのは、
あるいは、給料をもらいながら見合った仕事をせずに飲食・放蕩したい放題の
彼らNPO団体職員の
それでも抱かざるを得ないなにか 「抑鬱されたもの」 がはけ口を求めているのかもしれない.
学校でいじめをおこなう者、組織で特定の相手を排斥しようとする者たちもまた、
単に、自己の愉悦や自己保身のためばかりでなく、
彼らがもつ鬱屈したものの排泄方法として他者を攻撃しているのか.




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スウェーデンでもいじめはある、ということは、ありうる話だ.(私は経験ないが.)
しかし、他者を攻撃することは社会から 「悪」 と認定されている国であり、
その、他者攻撃の度合いと性質は、日本のそれとは大きく異なるだろう.



なにが、スウェーデン人と日本人の間に差を設けさせているのだろう.
たとえば、異性観でも、日本は禁忌と思われるものが多いのに、それを冒すことも 「好き」 だから、
自分たちでつくった禁忌を 「冒す」 者を自分たちでことさらに攻撃して喜ぶ習性がある.
こういったことは、教育の違いが生んだ国民性の違いであろう.



しかし、教育される以前の、学校で他者を排斥・攻撃する子どもたちは、
いったいどうしてそうなったのか.日本人の彼ら彼女らをそのようにさせたものはなんなのか.



平和


友愛


ヒトであることの肯定


そのようなものがあの国にはあり、日本の一部の人々には欠如している、ということなのか.



「日本を真の福祉国家に」 などというかけ声がなされても、
日本人が根底から意識を変えない限り、いや、意識が変わらない限り、
単なる制度だけを移植したところで、日本はスウェーデンのようになりはしない.



では、日本人の意識が変わるには・・・・・・たぶん、それが、次世代教育の意義なのだろう.



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奪われつつ 生き了わる
- 2009/06/01(Mon) -
        2年ぶりに、この島では初めて歯医者にいった.
        以前いた、沖縄では2つめの島の石垣島で治療したところがまたわるくなった.
        初診の記入用紙を受付のすぐ横下の椅子で書いたら、
        低い書棚に 「小学生に読ませたい童話集」 といったタイトルの本があった.
        とって中をみたら、芥川龍之介の 『白』 という作品もあった.
        椅子に斜めに座って、ちょっと見たら書棚に戻す姿勢で読み出したら、
        そのままの斜め横座りの姿勢で最後まで読んでしまった.
        診察はまだだったが、その読書に何かを奪われた感じがして気分よくなった.


           ――――――――


        徹夜で作業をした朝、つい牛乳を飲みすぎてお腹の調子がへんになった.
        それでも眠くなるまでと、コンピュータである映画を観始めた.
        案の定、半分ほど観たところで残念ながら寝ることになった. そして、――
        勉強しに高校生が夕方から来るので、昼過ぎに起きたところで、
        午前中の映画の後半を見ることにした.
        腹具合わるく食事がとれそうもないので、チョコレートの箱をあけた.
        食べた包み紙をゴミ箱に捨てようと左手にもって
        回転椅子を左に回して立ち上がろうとした姿勢のままで最後まで観てしまった.
        作品そのものよりも、自分を奪われたような感覚が気分よかった.


           ――――――――


        何が自分に起こったのだろう.
        この、自分がなくなる感覚は、
        勉強に熱中していたスウェーデンや日本の大学院の時代に、
        また、恋愛の狂熱のさ中にも、身に覚えのある感覚だった.

 
        人は、この感覚からのがれることはできないのだな. きっと、死ぬまで.

        
        
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           この世には、

           まだ こんなに美しい歌がある

           まだ こんなに美しい命がある

           まだ こんなに美しい詩がある
 
           まだ こんなに美しい人がいる



           どのひとつも、人が一生懸け 己を捧げ 心奪われてしかるべきもの



           世界は、まだ まだ このようなものを そこかしこにもつ



           いまも、そして、きっと、これから未来も      ずっと.


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