人の品質
- 2017/11/16(Thu) -
(本記事は、2007年10月12日に書かれたものである。)

高校時代の同学年のクラス会のサイトがあるのをきょう知った。
なつかしい名前をいくつも見た。私の記憶では、みな、高校時代のままの顔だ。


それでよいはずだ。


2年前に、高校1年のときの担任の先生を訪ねたことがあった。
その時のことを書いた旧ブログを思い出した。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


小学生や中学生のころの私は、おとなである教師や年上の従兄たちなどに無条件の畏怖を抱いていた。

自分の知らない世界を知っている者への畏敬の念である。だれもが年少時はそうとは限らないだろうが、私はそうだった。

自分が20代30代になるにつれて、過去に畏怖したおとなたちと同じか彼らを越える年齢になって、その畏怖の念が消えて、何か滑稽な思いとともに、年配者にみていた神秘も消えていった。

そんな時、仕事で、高校1年時の担任の先生に会うことになった。
その先生は、当時は20代後半だったが、父親ほど年の離れた教師に対してよりもずっと深刻な距離感を私は抱いていた。
クラスみなが、あの先生にはかなわない、あの先生なら 「人類の標本」 になれる、と本気で思っていた。
私は、その先生とも距離感が埋まっていることを期待して、心愉しく会いに行った。

m


先生は、白髪と顔のしわこそ目に付くようになったが、立ち居振る舞いも、口調も、30年前と変わりなかった。
先生と同じように身体を鍛え、先生よりも長い期間にわたって大学で研究生活を積み、高校教師ではないものの、予備校で教え、学習図書の編集もいくつかしてきた私は、先生の人生経験に迫っているはずだと思っていた。

しかし、先生の前では、私は、やはり、毎日雑巾のようなラグビージャージを着て走り回っていた高校生時代とかわらぬ 「高みへの距離」 を感じたのだった。

人間と人間の差は、無論、年齢によっても生じうるが、それだけではない、「人間としての品質」 とでもいうようなものによってももたらされるものなのだ、と私は悟った。


社会の中で、研究室の中で、その言動是認すべからざる人間を数多く見てきたが、自分にはまだ仰ぐべき人格がこのようにある、ということを知って、往路よりははるかにずっとすがすがしく朗らかな気持ちで帰途についた私だった。


m
この記事のURL | 我が基層 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
居酒屋の客
- 2017/11/16(Thu) -
        昔、大学のあった高田馬場や、実家のあった横浜や、その後に住んだ仙台や、恋人のいた博多
        とかで出入りしていた居酒屋の主人は、私のことをどう思い出すのか、と、我が家に通う猫た
        ちを見ていておもった。
         
        我が家は、猫の居酒屋のようだ。5代目を迎える猫たちが、ベランダ、台所、玄関、室内にい
        るので、それらに食事を出すのがひと仕事だ。刺身が好物のもの、キャットフードに鶏を焼い
        た油をたらしたものが大好物なもの、焼き肉命なもの、ドライキャットフードに缶詰キャット
        フードをトッピングしたものが好きなもの等々・・・

        しかし、オスは早々にいなくなる。時には、前日私の手に頭をつけていたものが朝に私の眼前
        でクルマに轢かれて死んだり、なにか事故で血を吐いて玄関前に倒れていたりする。

        そんななか、二代目であるメスがこの二週間から来なくなった。
        娘や孫やひ孫たちに遠慮するようになったのか。



        その猫をおもうように、私が毎日通った居酒屋のオヤジや女将たちも私がふっつりいかなくな
        ったときにおもっただろうか。そうなら、すがすがしい。



        いつだったか、昔、八代亜紀だったとおもうが、♪もいちど逢いたい~♪ という歌詞の歌を聴
        いたことがある。
        

「もういちどあいたい」
        そう、思うことが自分にあるのだろうか。
        いきなり喧嘩した恋人と電話がつながらなくなったときなどは、そう私もおもったが、

        いま、もういちど会いたいとおもう昔の恋人はいない


どうせ再会しても
いつかはどちらかが死んで訣れることになる
別離は所詮避けられない
あなたの死に顔見たくないから私が先に死ぬね、
と言った恋人ももういないのだ



そして、いなくなったその二代目も、彼女が生まれて、やんちゃだったころ、
        子を産んで苦労していたころ、その偉大さは私に教えるものがあった。

        恋人にしても、あのとき、あの場所の、あのときの我らだったから交錯することができたのだ。



        スウェーデンでの私の親友は、どこにそんなエネルギーが、とおもうほど、活動的で生き生きしていた。
        毎日、私なら2時間はかかるところを1時間自転車で行き、ダンスの練習をしていた。
        あるとき、私が、外国人でいわれのないことで警察に呼ばれたとき、期末試験の朝だったにもかかわらず、
        彼が試験の前に警察に自転車で行って、私がそんな人間ではないことを言明してくれた。
        そして、その他知り合いみんなに呼びかけて、大勢を同じように動かしてくれた。
        署長は、私に、「きみはいい友人たちをもった」 と言った。


その彼が、私の帰国すぐあとにガンで倒れたとその弟からメールが来た。


Jonney Nilsson


きみも偉大な私の知友だ。


もういちど会いたい、なんていわない。




ありがとう。きみのおかげで、いま、私は、いる。



s





        
この記事のURL | 我が基層 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
目覚めた人たちの道
- 2017/11/14(Tue) -
釈尊が思惟し、ソクラテスが思考したころよりは、
現代に生きる人々は、学校教育のおかげで、
ニンゲンの細胞が生まれた時から生成と死滅を繰り返し、
ついには死滅が支配するということを常識で知っているし
ニンゲンは世界規模の殺し合いを何度も懲りずに行ってき、
いまも飢えて死ぬ子どもたちが世界のあちこちにいることを
歴史を勉強することで、ニュース報道に接することで知っている。


それなのに、釈尊が覚醒した知恵や、ソクラテスがこだわった知恵を
いまだに人々が身につけられないのは・・・・・・それが、ニンゲンなのか


かつてニーチェは、「喜びよりも悲しみのほうが深い」 と言った。
確かに、たとえば、子猫を見ても、かわいい、と喜ぶよりも
それがクルマや他の動物によって早々に殺されることが 「真実」 と諦(あきら)めているほうが
自身の心を守ることはできるだろう。
しかし、たとえ、「常なるものは無い」 のが真実だとはいえ、
世界の喜びの後ろに全て悲しみを見る目もまた、偏った見方の1つだろう。





ニンゲンが、本当に、仏陀の知恵、つまり、目覚めてしまった人の認識知や
ソクラテスが追究した知識を、あたりまえのようにわきまえるようにならない限りは
政治指導者同士の、あるいは、研究機関での、あるいは、
学校や近隣同胞との、争いもめごとは終わらないだろう


釈尊が目指したのは、全ての人々が自分と同じような知恵を得て
世界全土がまっとうに動く地上の姿なのだったろう


争いこそが、競争を生み、仕事も研究も進歩させる、という考えは、
そういう状況しか知らないニンゲンならではの理屈だ。
相手を虚偽によって落し入れ、密室会議で出し抜くやり方での 「勝利」 など、
所詮は、蝸牛の争いの勝利にすぎず(あるいは単なる当事者の安逸のためで)、
そのようなものは、人類全体の進歩にも、社会善への前進にも何ら寄与しない





世界はこのようにあるのに

ニンゲンたちの間では、なぜ、「見えない」 者たちが圧倒的なのか


(本記事は2008年10月7日に書かれた)


ASURA_detail_Kohfukuji.jpg
この記事のURL | 我が基層 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
秋の俳句
- 2017/09/17(Sun) -
私がいまいる沖縄の離島にも、昨日、秋の風が吹き初めた.

あきらかに朝日の力がゆるやかになり、風に涼しさが宿った.それは今朝も続いている.

暑さがあったからこそ、この変化を感じとる.


☆ ★ ☆ ★ ☆



私には、昔、つまり、スウェーデンに行くまえ、俳句を詠んだ恋人がいた.

私がスウェーデンに行くと決まった夏の終わり、彼女は、秋と、二人で歩いた早稲田近辺の風景を読み込んだ句をつくった.私は、スウェーデンにいる間からもう彼女には連絡しなくなったが、彼女の句は、スウェーデンの冬迫る前の秋の日差しの下でも、いま、沖縄の炎熱のあとの秋の気配の下でも、口ずさむものになっている.




人間の精神もまた、美しいものなのだった.



t


20110907
この記事のURL | 我が基層 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
個と環境
- 2017/08/27(Sun) -
もうこの年齢だから言ってよいだろうが、

個にはその存在がおさまりきる環境とおさまりきらない環境がある.

我が家にかつていた黒猫は、親きょうだいたちと異なり、

エサの袋は自分で噛み破って食べ、

私の運動用のバランスボールや飲料のペットボトルは爪で破り、

サッシと網戸を自力で開け、自由を欲し室内飼いの環境を超越していた.



ヒトにも同じことが言えよう.



この記事のURL | 我が基層 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
吾郎はなんで海堂をやめたのか
- 2017/08/25(Fri) -
古い友が携帯のLINEを始めたようで通知があったので最後の挨拶をしておいた. 121126
(もっともその後、現在平成14年になってもやっぱり話しているが.)





彼は、スウェーデンから戻った私が、日本の大学に愛想をつかして仙台でぶらぶらしていた時に東京に破格の給料で呼んでくれたやつだ.その前は、スウェーデンから戻らない私に早稲田が早く修士課程を終えろというので、私の修士論文をスウェーデンからのメールで受けて私の代わりに印刷して製本して大学に出してくれたりもした.





その彼の御膳立ての職場を、私は数年で去ったのである.





理由は、茂野吾郎と同じなのだ.





もう、それじゃあ、おれはつまらないんだ








もっと




生きたかった




だけなんだよ




まあ




わからないだろうけどさ




goro


151115
上の記事が、標題に合っていないことに気づいたので加筆する.

ニンゲンの中には、

自分が属する組織で、

毎日8~90%くらいの緊張感であることが普通、とおもえる種類と、

毎日、昨日と同じ緊張感で生きていいはずがない、とおもう種類がいるのだ.

前者は、ニンゲンの大部分.会社の上席にいるような者はほぼこの種類である.

後者は、毎日、胃がすさむような、

まるで岩壁登攀をするように

日々何かと戦って

前進進化する自分を体幹し続けなければ生きられない種類なのである.


吾郎は、

海堂にいても、昨日と同じように努力進化できたろうが、

その前進度合いは、もう、自分で予測できてしまうものになった.あたかも、眉村や佐藤の進化のように.

その、

自己進化の比例直線のような軌道にのって明日も生きることは、

吾郎にはできなかったのである.

吾郎は、比例的上昇ではなく、

もっと、できるものなら、tremendous  に、極限まで自分を高めなければならないと自己指令した.

明日も海堂のグラウンドを走るのも進化の道だろうが、それよりも、もっと激烈な進化を求めたのである.




かくして、吾郎は、海堂をやめたのであった.




ニンゲンの中には、


少数派だが、


いるにはいる種類のニンゲンの道行である.


Rådyr



この記事のURL | 我が基層 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
幸せ、とは
- 2017/08/14(Mon) -
私のこのような文章でも読んでくださる人がいるようで
年若い人から、私は私の幸せを求めるべきだ、というお言葉をいただいた。


私が、ここで、「・・・のような家庭は幸福だ」 とよく書くからだろう。


ドストエフスキーだったか、「幸福な家庭は・・・だが、不幸な家庭は~だ」 という言葉があったとおもう。
「・・・」 と 「~」 にはどちらかに 「さまざま」 どちらかに 「同一」 という言葉がはいったはずだ。
いまの私はそのどちらがどっちだったかは覚えていない。
私が言えることは、幸福には、先の若い人の言のように、「さまざま」 なかたちがありそうだが、
不幸は、その形態はさまざまでも、原因は、「ニンゲンの愚かさ」 に基づくという点で同一、だと思える。


私は、しかし、幸福は、追い求めるものではないように思うのだ。


私は、永住したいと願っていたスウェーデンから、日本のある一人の女性の求めに応じて戻ってきたが、
結局、その相手とも続かず、日本での目的を失った。


そして、日本で身体をこわしてスウェーデンに戻れず、さりとて日本でも論文ができず、
一時、企業の雇われ頭脳として働いたのち、
いま、南の離島の若者に好き放題しゃべることで日々の糊口をしのいでいる。


そんな私が言うのもおこがましいが、幸せは、求めるものではないのだ。



私は、私をスウェーデンから呼び戻したその日本のかつての恋人と悩んでいたときも、
身体をこわして仙台という土地で無為のまま病院で過ごしていたときも
東京で、私の頭脳を利用しようとしていた会社に使われていたときも
ずっと、私は、あかるい蒼穹を見上げつつ幸せであったのだ。


なぜなら、私は、幸せな生き方しかしない、から。


私はこうして生きてきた。そして、これからも、どこに行くかわからぬが、生きていく。





世界をみつめつつ



w




(本記事は2009年2月21日に書かれた.)


この記事のURL | 我が基層 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
血の繋がりを超えて営まれるべき幸福
- 2017/08/11(Fri) -
血縁がなくても親だ、

そう私はおもっていままで、自分の恋人や同棲相手や、勉強にくる子どもに接してきた.


ごくせん、という番組を遅ればせながらいまさら観てみたら、そう言っているところがあったので、とりあえず、あげておく.
⇒ 『ごくせん


しかし、日本では、同棲相手の男性に女性の連れ子が殺されたり虐待されたりする事件がしばしば報道される.


そのために、私の恋人の親族も、私をそんな男と見、自分たちが追い出した子どもが虐待されていると逆に怒ったりされた.なんだか理解できない精神構造だ.



血縁、などに、ほんとうは意味はない、と私は言いたい.


血がつながっていても、だれよりも残酷なことをする肉親がいた.




血などつながってなくとも、私がともに暮らした小学生は、私との別れを、私の胸を熱い涙で濡らした.



血のつながりなど、よりも、もっとたいせつなことがあるのだ.


わかるであろう.



ヒトとヒトとしての、真のわかりあい、ということだ.


それがあるなら、世界は、もっと広く、平和で、豊かなものになるはずなのだ.


k

(2010.11.22.記)
この記事のURL | 我が基層 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
英語学習事始の思い出
- 2017/08/09(Wed) -
みなさんは、英語の小菅先生を覚えているだろうか。
私たちが高校に入学して最初の英文法の授業で、勉強すべき図書として 『新々英文解釈研究』 と 『和文英訳の修業』 を挙げた先生だ。

先生の指令を完遂した人はどれだけいるだろう。
私を知る人は、特に、110Hの者たちは、私が新英和中辞典の動詞の例文を丸暗記していたのを知っているかもしれない。最初にre-で始まる動詞、次はcom-, con-で始まる動詞をやった。refer とか、recommend とか、reveal とかの例文にシビれていた。

しかし、私は、高校時代は英語は4どまりだった。クラスのみんなも、私が英語が得意な印象はなかったと思う。その私が、翻訳書を出したり、高校生向けの英語問題集を書いたりしていることを知ったら、あの世の小菅先生も驚いているにちがいない。

その後、浪人時代に、私は、上掲後書の例文500は、駿台で教わった伊藤和夫先生の700選とともに丸暗記した。上掲前書の文章も覚えようとしたのだから、私は、オカシイ受験生だったと言える。


     ――――――――――――――

その私がいま、沖縄の離島で小学生から浪人生までを相手に勉強をみているのだが、高校生が入ってくると最初にさせるのは、『和文英訳の修業』 の500文を丸暗記させることだ。無論、1つひとつの文章に含まれる熟語も文法要素も説明していく。

「三つ子の魂百まで」 という諺の意味を私なりに引き受ければ、私の高校時代、小菅先生に刺激された英語学習で芽吹いた 「暗記」 の習性は、私に20代前半で英語のほかドイツ語・ロシア語・ラテン語・古典ギリシャ語・サンスクリット(文学)を習得させ、その後の私の 「言語研究」 のきっかけをつくったし、スウェーデン語でも同じような勉強を経験させ、彼の地で私を活動させた。


人生で出会う人は有限だ。大学やスウェーデンで出会った恩師たちとともに、高校時代の小菅喜三郎先生も私の人生に決定的な影響を残した人物だと言える。


もし、霊魂というものがあり、どこかで先生にまた会えるなら、今度は、少しはちゃんと先生の前で受け答えできればよいと願う。

b


(2009.5.28.記)



そうして、また春が来て、私のような者にも、英語を教えてほしいと高校生がやってくる季節になった。

きょうも、きた生徒二人に 『和文英訳の修行』 を買ってくるように指示をした。

私の生徒は、これを暗記するところから始める。


しかし、この小さな島で、次々と注文される 『和文英訳の修業』 の版元・文建書房は、おそらくこの現象に首をかしげていることだろう。


これも、小菅先生から私へ、そして、私から私が出会った高校生への、知識の伝播なのだ。

こうして、人は、他者へと、後代へと、自分の思いを遺してゆきゆくのだろう。

(2010.4.09.記)




この記事のURL | 我が基層 | CM(0) | TB(0) | ▲ top
一期・学習
- 2017/08/07(Mon) -
休日午前のマーケットのレジで、私の前に2人の子ども連れの家族を見た。


私は人生で一度も結婚はしなかったが、子どものいる生活を2度経験したので、
「家族の幸せ」 というものを知っている。あれが、生きる幸せ、であろう。
もっとも、それらの子どもは、私とは血がつながっていなかったが、
血のつながりが必須なものではないことはスウェーデンでじゅうぶん見ていたので、
私は何ら心配していなかった。

しかし、日本人の悲しいニュースしかしらない親族たちが、私たちの 「幸せ」 を理解しなかった。



◇◆◇◆◇



私は、学生時代も、社会人になっていた時期も、スウェーデンでも、それなりに恋人は幾人かはいたが
そのだれとも結婚しなかった理由の大きな1つが
子ども時代に、父親が私の母親を殴打するのを見ていたからだろうとおもう。
家庭イコール悲劇、という連想が脳裏から離れない。
あの光景は、いまも恐ろしく、顔面に青あざをつくった母親の痛みはいまも私の苦痛だ。
当時小学低学年だった私は、わけのわからぬ弟をはげまし、
父親にとりあえず声をかけて、深夜の町をスーツケースをもって隣町へ歩く母親を探してまわった。



先の子どもとその母親との生活でその苦痛の記憶が打ち消されそうになったころ、
しかし、その生活も終わりを告げざるを得なくなった。
私は、家庭の幸福の味を知っただけで、その中にい続けることなく終わった。



◇◆◇◆◇



父親は、そうしたDV行為を子どもの私にいさめられたことがあってから
いっさい学生期の私に親としての経済的扶助をしなくなった。
私には大学の学資は一切払わず、弟だけが、大学卒業までスネをかじり車の免許までとらせてもらった。


私は、大学に入るため家を出てから30年以上、実家で正月を迎えたことは片手の指ほどもない。
あるのは、スウェーデンから帰国して挨拶に顔を出したときくらいだったろう。
若いころに外国に憧れたと言っていた父親は、私の海外修行に何の関心も示さなかった。



◇◆◇◆◇



周囲の取り決めで私と訣れることになった血のつながらない子どもは、私の胸を涙で熱くぬらした。



かたや、先日逝った私の父親は、帰国した私が差し出した握手を 「よせ」 と拒否した。



血のつながり、とは何か意味があるのか。



私にすれば、上記の子ども(男子)や、その後、週末親をしていたある少女のほうが
だれよりも私という人間を精神の中にとどめたようにおもう。
そして、何人かの、予備校や塾で教え、手をやかされた若者たち。また、昔の恋人たちも。




「年をとって家族がいないと不安だろう」 という者がいるが、
家族がいて、寝たきりの自分にアイスクリームを買ってきてもらうことなど、私は幸せとは思わない。



自分の気持ちが確かに伝わる人間をもっていること、
それが、他人の子どもになっても、それが、他人の教え子になっても、それが、他人の家で暮らしても、
私の精神を記憶する者、それこそが生きる財産だ。


◇◆◇◆◇


人間がもっと広く愛し合えるようになればよい。他者への愛情が無辺に広がることが排斥の対象にならぬ世界になるとよい。


f


(本記事は2009年1月24日に書かれた.)
この記事のURL | 我が基層 | CM(1) | TB(0) | ▲ top
| メイン | 次ページ