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未来は世界を知ることのうちに
- 2019/08/16(Fri) -
スウェーデン人の民族学者イリス=ヘルリッツ(Gillis Herlitz)によれば、「スウェーデン人は人前で自分の子どもを声高に叱りどやしつけるようなことはしない」という(Svenskar s.94)。この発言は、もともと、いまや移民第三世代の時代を迎えるスウェーデンにおいて、スウェーデン人側から、異文化の担い手である移民に対して自らの文化・国民性を弁明しようと意図された書中なればこそあえてなされたものだとはいえ、私たち日本人には、とりたてて驚くような事柄ではないと言えよう。確かに、それらは、家長、あるいは、親が子に絶対的な権限を有する、主として中近東の国々からの移民に対して言われなければならなかった断り書きだったろう。だが、その実例が、マーケットで自分が食べたいお菓子の前でぐずっている子どもの顔の高さにしゃがみこんで静かに目を合わせて語りかける母親、ということになると、日本人にとってもいささか痛いところをつかれた気がする人も多いことだろう。しかして、スウェーデン人の母親がそうする理由が、「それを見る他者に苦痛となるような行為を慎むのがスウェーデン人であるから」と言われると、もはや、おおかたの日本人の親は、そうやすやすと「私もそうだ」とは言えまい。この「他者に苦痛となるような行為は慎む」というのはどのようなことなのか。単なる、むしろ日本人には得意な、「世間体をはばかる」ということなのか。  ヘルリッツはさらに、「スウェーデン人の親は子どもを教育していない」という外国人による非難に対して、「スウェーデン人の親も家では子どもに口うるさく言っているのである」と弁明している。このように言われると、まさしく「世間体をはばかる」ために、スウェーデン人の親は人前で自分の子どもを叱りつけないのだ、と言ってよさそうにも思える。 * * * * *   「国民感情」という抽象的な言葉にも確かな実態が存在する。それは、その国民が代々受けてきた学校教育のおかげで、また、各時代においては、マスメディア等によって形成される情報のおかげで、その国民が自然とある特定の事柄には特定の方向の感情を集団的に共有せざるをえない性質をもつに至った状況を意味している。たとえば、私たちが「核兵器」と言われれば、「もうやめてほしい」という嫌悪にも哀願にも似た感情を抱かざるを得ないのも、私たちが受けてきた歴史教育のおかげだ。たとえ、広島や長崎で肉親を失っていない者でも、私たち日本人は過去に生きた人から現代の者まで、ずっとそういう感情を抱かざるを得ない点で他の国民とは異なる国民感情を有する。近頃できた「勝ち組」とかいう言葉で表されているとされる人々が有する生活水準が何か人生の成功指標のように思われているのは、この時代限定の国民感情であろう。  そして、スウェーデン人の国民感情としてあるもののうち、最も大きなものの一つが、「他者が苦痛を受けているのは見るにしのびない」という心情である。スウェーデンでは、早くから夫による虐待を受けた女性のための避難施設が設けられた。いまでは、子どもが親にぶたれそうになると、子どもが「ぼくをぶったら警察に通報するよ」と親に言うと前掲書にも書いてある。激昂した外国人がスウェーデン人と口論をして、相手の襟首をつかんでスウェーデン人に「殺すぞ」と言ったとしたら、それは立派に警察に通報する理由になる、とやはり同書に書かれているし、私は、酒の席でそういう場面にでくわし、同席していたスウェーデン人女性がすぐに警察に電話する様子も見ている。幼稚園では、日本風のアクションヒーローの変身ポーズを日本人の幼児がしただけで「あぶないからやめるように」と先生が制止する光景も見た。帰国した日本人主婦は、スウェーデンになじんだせいで、日本の母親が子どもに金切り声をあげたりおどしたりするのを見ていて苦痛になる、ましてや、子どもをたたく親は見るにたえない、と私に手紙をよこした。  スウェーデン人の親は、こうした心情から、人前でぐずる子どもを叱りつけるようなことをしないのである。それは、もちろん、自分の子どもをどやしつけることで子どもに精神的ストレスを与えたくない、という気持ちもさることながら、もっと大きなことは、そのような光景を見せられた他人が苦痛を感じることをすまなくおもう気持ちなのだ。  さらにこうしたことは、スウェーデンでは、なにも人間同士・子どもや女性相手の場合ばかりでなく、対動物、はては、自然環境に対しても言えることなのである。動物虐待とは無縁なのがスウェーデン人の動物に対する考え方だ。犬や猫でも、それが苦痛を感じるようなことはしたくない、という感情がだれにもある。自然の景物・貴重な遺跡もスウェーデンではたいていが柵もないままに原野・広場に放置されている。そのようなものを盗んだり傷つけたりする者はスウェーデン人の中にはいない、という確たる認識があるからなのだ。(スウェーデンがEUに加盟する際の国民投票の結果が賛成五十一%・反対四十九%と票を割った理由が、ヨーロッパの諸国人に自由にスウェーデンに入ってきてもらいたくない、という感情だった事実にもこの点は反映されている。)学生寮の前にふんだんにいる野生の大型のリスやハリネズミなども、それをつかまえてどうこうしようという考えを抱く者はスウェーデン人には絶無だ。自然に存在するもの・野生にいるものは「そのままにしておく」ことが、他者に苦痛を与えないスウェーデン人流の態度なのである。  こうしたスウェーデン人の国民感情から生まれたのが fridlysa というスウェーデン語の動詞である。スウェーデン語はゲルマン語族に属し、英語やドイツ語と対応する単語がたいていは存在し、さらに、同じ北欧圏のアイスランド語・ノルウェー語・デンマーク語とは姉妹言語で方言同士の差異以上には違わない言語なのだが、この fridlysa だけは、スウェーデン語にしか存在しない単語である。単語の構造は、「平和」を表すfrid-(ドイツ語の Frieden に対応)と「相手が求めるままにしておいてやる」という意味を表す -lysaの部分(英語のlet 、ドイツ語の lassen などが対応)との合成語である。この、「平穏なうちにあるがままにしておく」という動詞が過去分詞になると「保護された、保護されている」という意味にまで発展する。 * * * * *  スウェーデン人の親が人前で自分の子どもに金切り声を上げないのは、決して「世間体をはばかる」ためではなかった。日本人の「世間体」は、生活のさまざまな局面に「恥」と「禁忌」を重んじる態度の反映であろう。しかし、スウェーデン人が子どもを人前で叱り怒鳴りつけないのは、彼らが有する「それを見ている人の苦痛となるような行為は慎む」という、「他者に苦痛を与えないことを何よりもよしとする」心情こそがその根底にあるものだったのである。果たして、それを共有する国民はどこかにいるのだろうか。  政治制度や天皇制(王制)は意図的に、文化の流行などは自然発生的に、スウェーデンのそれらを模倣している局面が実は日本社会にはさまざまな場面で見られる。しかし、スウェーデン人の国民性は、そのさまざまな特質のうちのこうした一つをとってみても、一見すると日本人と類似しているような性質でありながら、その真実のあり方は日本の文化風習しか知らない日本人にはとうてい想像だにできないような性質のものなのだった。  私たちがよりよく人間(じんかん)にあって生きるには、また、私たちが未来に地球環境の中でよりよく生きるには、私たちがもたない知恵や心情を有する他の文化の担い手から学んで自己を変革してゆくしかないだろう。そうすることで、地球規模で他者理解の環(わ)が構築されてゆくはずである。たとえそれが、ニンゲン的愚かさから、我が身にまとうにはとうてい困難であろうとおもえる知恵・心情であろうとも、未来の世代は、その多様な袖に手をとおし続けてみる努力からのがれてはならないだろう。
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茶の味
- 2019/08/13(Tue) -
『茶の味』という映画を観た.





三浦友和が私と同じ中学校の同学年だった山口百恵と結婚した時は、私は別に彼女のファンではなかったが、夫となる男の俳優としての名前を知らなかったので、だいじょうぶなのか、などといらぬ心配をしたものだが、






三浦友和はすばらしい(私の趣味には合っている)よい俳優になった.





彼の映画では、『Adrift in Tokyo』(多分、原題は『転々』だったとおもう)と、『Outrage』が出色だと思われる.






正反対のキャラクターを演じられる、という意味で.







そんな意味で、昔の同級生である、彼の細君も、きっと幸せなのだろうとおもって私はうれしくもなるわけである.




adrift in tokyo

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子どもから教わった映画
- 2019/08/13(Tue) -
「ミニオンズ」というキャラクターの鞄やTシャツや下敷きなどを小学校の教え子たちがもっていて、常々、それはどんな生物なのか私は子どもたちに尋ねていたのだが、



きょう、やっと、その映画を、Amazon Prime Video で見ることができた.




あんなに大勢の(形は奇妙だが)忠実な仲間と頭脳のある博士が身近にいて、主人公の Mr. Gru は幸せ者だなぁ、とつくづくおもった.そして、映画に感動すらしてしまった.


そんな私を横で、猫の豆太郎とそのきょうだいのロビが、薄目を開けて寝転がって眺めている.


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授業参観
- 2019/07/31(Wed) -
(本記事は、私がスウェーデンから博士論文を出す目的で帰国して滞在していた仙台の東北大学時代の生活である.それは、2001年の冬のことだ.私が当たり前視していた 「血の繋がらない者どうしの家庭」 風景の一齣である.)



当時、私は長髪を後ろで結わえ、きたないジーンズ・Tシャツ・革ジャンだったが、アキラの母は小綺麗な女だった。
父親が来ていたのは2~3人だったが、そんなこと、私は気にしない。
第一、私は、アキラの父ではない。
アキラは私を、私の下の名前に「さん」をつけて、母親がするのと同じ呼び方を私にしていた。
家に遊びに来る友人が私を「アキラくんのパパ」と呼ぶたびに、アキラは「パパじゃないの、○○さんなの!」と訂正していた。
私も、「きみのパパは世界で一人だけ」と教えていた。

授業参観のテーマは「得意なもの発表会」だった。
アキラに得意なものなんかあるのか、何かを練習していた形跡さえないぞ、と私は、アキラの母親とかなり心配になって教室の後ろの母親たちの群れにうもれていた。
みな、ウタ歌ったり楽器を奏でたり、掛け算九九の暗誦、とか、フラフープ、とかをしていた。
果たして、アキラは…
アキラの番になり、彼は、「さかだち」だった。
なんて地味な……、と見合す私とアキラの母親の顔に縦線が入った。

先生が彼の足をもつようで進み出た。
するとアキラは大声で母親たちの中にいる私を指差してきっぱり言った。
「先生じゃだめ。○○さんにもってもらいたい」

先生は当惑。
いや、それよりも当惑したのは母親たちだった。
普通、自分の父親なら「お父さん」とでも呼ぶだろう。では、この、参観日に来ている長髪の男は、いったいだれなのか、お母さんの愛人なのか…(ま、それはそれではずれではないのだが)、といったどよめきが教室の後ろを占めた。

私は、「よしきた」と進み出た。アキラの母親が私の腕をつかむ。

先生も、特定の父兄を前に出したくないのだろう、私にとまるように目配せした。
再度アキラに「先生じゃだめなの?」と尋ねる先生に、アキラは、「○○さん」と繰り返した。
3度目の先生の申し出に「じゃあ、先生でもいいよ」とOKを出すアキラ。
彼は、先生に足を持たれて、倒立腕屈伸を10回やった。
家で私がしている真似をしたのだ。
母親たちは、逆立ち腕立てを10回したアキラに賞賛を送ったが、私は、私を指名してくれたアキラに心から感謝した。

授業あと、アキラの同級生の女の子のかわいい子の名前をチェックすることを私が忘れなかったのは言うまでもない。

それからしばらくして、テレビ月9の「人にやさしく」で、香取と松岡と加藤が主人公・明の授業参観に行く回があった。
やつらも、明の同級生のかわい子ちゃんを見つけて大騒ぎしていた(松岡などは、美しい母親を口説いていた)。
それでアキラと彼の母親に私がまた笑われたのも言うまでもない。


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居酒屋の客
- 2019/06/16(Sun) -
        昔、大学のあった高田馬場や、実家のあった横浜や、その後に住んだ仙台や、恋人のいた博多
        とかで出入りしていた居酒屋の主人は、私のことをどう思い出すのか、と、我が家に通う猫た
        ちを見ていておもった。
         
        我が家は、猫の居酒屋のようだ。5代目を迎える猫たちが、ベランダ、台所、玄関、室内にい
        るので、それらに食事を出すのがひと仕事だ。刺身が好物のもの、キャットフードに鶏を焼い
        た油をたらしたものが大好物なもの、焼き肉命なもの、ドライキャットフードに缶詰キャット
        フードをトッピングしたものが好きなもの等々・・・

        しかし、オスは早々にいなくなる。時には、前日私の手に頭をつけていたものが朝に私の眼前
        でクルマに轢かれて死んだり、なにか事故で血を吐いて玄関前に倒れていたりする。

        そんななか、二代目であるメスがこの二週間から来なくなった。
        娘や孫やひ孫たちに遠慮するようになったのか。



        その猫をおもうように、私が毎日通った居酒屋のオヤジや女将たちも私がふっつりいかなくな
        ったときにおもっただろうか。そうなら、すがすがしい。



        いつだったか、昔、八代亜紀だったとおもうが、♪もいちど逢いたい~♪ という歌詞の歌を聴
        いたことがある。
        

「もういちどあいたい」
        そう、思うことが自分にあるのだろうか。
        いきなり喧嘩した恋人と電話がつながらなくなったときなどは、そう私もおもったが、

        いま、もういちど会いたいとおもう昔の恋人はいない


どうせ再会しても
いつかはどちらかが死んで訣れることになる
別離は所詮避けられない
あなたの死に顔見たくないから私が先に死ぬね、
と言った恋人ももういないのだ



そして、いなくなったその二代目も、彼女が生まれて、やんちゃだったころ、
        子を産んで苦労していたころ、その偉大さは私に教えるものがあった。

        恋人にしても、あのとき、あの場所の、あのときの我らだったから交錯することができたのだ。



        スウェーデンでの私の親友は、どこにそんなエネルギーが、とおもうほど、活動的で生き生きしていた。
        毎日、私なら2時間はかかるところを1時間自転車で行き、ダンスの練習をしていた。
        あるとき、私が、外国人でいわれのないことで警察に呼ばれたとき、期末試験の朝だったにもかかわらず、
        彼が試験の前に警察に自転車で行って、私がそんな人間ではないことを言明してくれた。
        そして、その他知り合いみんなに呼びかけて、大勢を同じように動かしてくれた。
        署長は、私に、「きみはいい友人たちをもった」 と言った。


その彼が、私の帰国すぐあとにガンで倒れたとその弟からメールが来た。


Jonney Nilsson


きみも偉大な私の知友だ。


もういちど会いたい、なんていわない。




ありがとう。きみのおかげで、いま、私は、いる。



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休日
- 2019/06/08(Sat) -
六月の

この時期は

沖縄島以西の南西諸島の島々は

蒸す 




だけの季節になっている




このあと来る

焦げる 夏の 




7,8月

と合わせて






自然の  造作  と受け止めている.


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白い巨塔最終話だけを観て
- 2019/05/27(Mon) -
映画ではないが

実家に戻っていて、母親が観ていたというテレビドラマの最終話を一緒に観た.


①教授や助教が地位を餌にして・されて動くのは、いまや医学部だけではない、文学部でさえも下衆な教授はよい教授と同数を下らない程度にはいる点で、現ドラマに失笑

②いまや、ガンは治らない病とは言えないことが世界で常識になっているのに、主人公の狂乱ぶりに噴飯

③田宮二郎主演のものを母親にタブレットで見せたところ、テレビそっちのけで見入っていたことに失笑


山崎女史の名作も、数十年たってしまえば、陳腐な内容になったとわかった次第.


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スウェーデン人気質
- 2019/05/16(Thu) -
スウェーデン人についてあちこちのブログで、「スウェーデン人は日本人と気質が似ている」 と書かれていますから、きょうは、ここでは、あえて、スウェーデン人と日本人が決定的に異なる点を挙げておきましょう。

スウェーデン人は [______________________] という点で日本人とは異なる。

という定義の下線空所欄に以下の各項目がはいるとお考えください。


1.1分単位の時間厳守である


2.下卑た性的話題をもたないし、他人の醜聞を愉しまない


3.公共物や文化・自然遺産にイタズラ書きをするような者は皆無である


4.お年寄りでもジムでウエイトトレーニングを当たり前にする


5.一人で死ぬまで暮らせるお年寄りが普通である


6.中年で独身でも家に異性を招いて食事する友人がたくさんいる.また、それを世間がなんとも言わない


7.性教育を子ども時代からちゃんと受けるので、肉体的なことに目の色を変えない


8.外国人に対して対等に接する.また、スウェーデン語を話せない外国人には英語を使ってあげる寛大さもある


9.自分のことは自分でまかなう精神が徹底しているので、学生も老人も身内の金をあてにしない


10.禁煙が徹底している.
若者も、健康意識が高いので、スナック菓子と甘い飲み物よりは、果物と水を昼食にする




・・・・・・なんだか、きりがなさそうなので、もう、これでおしまい。


s

skrivit på 20100930
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あるスウェーデン人女子学生の記憶
- 2019/04/19(Fri) -
知り合いから紅茶をもらい、たまには飲んでみる気になった。
ティーバッグをあけた瞬間、スウェーデンで出会ったある女子学生を思い出した。


私と彼女は、北欧の観光名所でもある、ウプサラ大学中央図書館で終日勉強していた。
指導教授の計らいで図書館に自分の席があり、
それを規定日数使用することが義務付けられていたからだ。


私たちは、休憩のときに、図書館内のカフェでよく落ち合った。



ともに決まった奨学金で生活していた私たちは、日々倹約に努めていたから、
カフェでも、菓子類は頼まず、お茶だけを飲んだ。
無論、お茶もたまに、である。
普段は、自分でもっていった保温ポットとバナナでカフェの外のカウンターにもたれた。



カフェの中の 「紅茶」 は、ティーバッグを1つ買うことになる。
それにポットのお湯を注ぐだけだ。砂糖とお湯はいくらでも使える。


彼女は、飲み終わったそのティーバッグを、大事そうにティッシュにつつんでカバンに入れた。



当時の私は、つつましいがおしゃれな彼女が、
自室でその紅茶の葉を乾燥させて何かに使うんだろう、くらいに考えていた。



しかし、いまおもうと、そうでなかったかもしれない。



彼女は、1杯のお茶も倹約しようとしたのかもしれなかった。





その後、彼女は、ロンドンの商社に就職が決まって故国をあとにした。



その彼女の名前は、  もう覚えていない。



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(本記事は、2008年11月18日に書かれた。)
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enkelhet
- 2019/04/11(Thu) -
毛者たちを観ていると、



大量にある通常食と、少量のたまの好物とでは、必ず好物にとびつくのがわかる.



美味いものを食べてまだ空腹でいるほうが、美味くないもので飽食するよりもよいのであろう.



同様に、自分がしたいことをするのを優先して、好ましくないことにはやむを得ない状況以外は身をさらさない.






こんな同棲者を観ているから、



私はますます身勝手なジジイになってゆくのである.



       090310_1628~01

skrivit på 20160515
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