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未来は世界を知ることのうちに
- 2020/03/15(Sun) -
スウェーデン人の民族学者イリス=ヘルリッツ(Gillis Herlitz)によれば、「スウェーデン人は人前で自分の子どもを声高に叱りどやしつけるようなことはしない」という(Svenskar s.94)。この発言は、もともと、いまや移民第三世代の時代を迎えるスウェーデンにおいて、スウェーデン人側から、異文化の担い手である移民に対して自らの文化・国民性を弁明しようと意図された書中なればこそあえてなされたものだとはいえ、私たち日本人には、とりたてて驚くような事柄ではないと言えよう。確かに、それらは、家長、あるいは、親が子に絶対的な権限を有する、主として中近東の国々からの移民に対して言われなければならなかった断り書きだったろう。だが、その実例が、マーケットで自分が食べたいお菓子の前でぐずっている子どもの顔の高さにしゃがみこんで静かに目を合わせて語りかける母親、ということになると、日本人にとってもいささか痛いところをつかれた気がする人も多いことだろう。しかして、スウェーデン人の母親がそうする理由が、「それを見る他者に苦痛となるような行為を慎むのがスウェーデン人であるから」と言われると、もはや、おおかたの日本人の親は、そうやすやすと「私もそうだ」とは言えまい。この「他者に苦痛となるような行為は慎む」というのはどのようなことなのか。単なる、むしろ日本人には得意な、「世間体をはばかる」ということなのか。  ヘルリッツはさらに、「スウェーデン人の親は子どもを教育していない」という外国人による非難に対して、「スウェーデン人の親も家では子どもに口うるさく言っているのである」と弁明している。このように言われると、まさしく「世間体をはばかる」ために、スウェーデン人の親は人前で自分の子どもを叱りつけないのだ、と言ってよさそうにも思える。 * * * * *   「国民感情」という抽象的な言葉にも確かな実態が存在する。それは、その国民が代々受けてきた学校教育のおかげで、また、各時代においては、マスメディア等によって形成される情報のおかげで、その国民が自然とある特定の事柄には特定の方向の感情を集団的に共有せざるをえない性質をもつに至った状況を意味している。たとえば、私たちが「核兵器」と言われれば、「もうやめてほしい」という嫌悪にも哀願にも似た感情を抱かざるを得ないのも、私たちが受けてきた歴史教育のおかげだ。たとえ、広島や長崎で肉親を失っていない者でも、私たち日本人は過去に生きた人から現代の者まで、ずっとそういう感情を抱かざるを得ない点で他の国民とは異なる国民感情を有する。近頃できた「勝ち組」とかいう言葉で表されているとされる人々が有する生活水準が何か人生の成功指標のように思われているのは、この時代限定の国民感情であろう。  そして、スウェーデン人の国民感情としてあるもののうち、最も大きなものの一つが、「他者が苦痛を受けているのは見るにしのびない」という心情である。スウェーデンでは、早くから夫による虐待を受けた女性のための避難施設が設けられた。いまでは、子どもが親にぶたれそうになると、子どもが「ぼくをぶったら警察に通報するよ」と親に言うと前掲書にも書いてある。激昂した外国人がスウェーデン人と口論をして、相手の襟首をつかんでスウェーデン人に「殺すぞ」と言ったとしたら、それは立派に警察に通報する理由になる、とやはり同書に書かれているし、私は、酒の席でそういう場面にでくわし、同席していたスウェーデン人女性がすぐに警察に電話する様子も見ている。幼稚園では、日本風のアクションヒーローの変身ポーズを日本人の幼児がしただけで「あぶないからやめるように」と先生が制止する光景も見た。帰国した日本人主婦は、スウェーデンになじんだせいで、日本の母親が子どもに金切り声をあげたりおどしたりするのを見ていて苦痛になる、ましてや、子どもをたたく親は見るにたえない、と私に手紙をよこした。  スウェーデン人の親は、こうした心情から、人前でぐずる子どもを叱りつけるようなことをしないのである。それは、もちろん、自分の子どもをどやしつけることで子どもに精神的ストレスを与えたくない、という気持ちもさることながら、もっと大きなことは、そのような光景を見せられた他人が苦痛を感じることをすまなくおもう気持ちなのだ。  さらにこうしたことは、スウェーデンでは、なにも人間同士・子どもや女性相手の場合ばかりでなく、対動物、はては、自然環境に対しても言えることなのである。動物虐待とは無縁なのがスウェーデン人の動物に対する考え方だ。犬や猫でも、それが苦痛を感じるようなことはしたくない、という感情がだれにもある。自然の景物・貴重な遺跡もスウェーデンではたいていが柵もないままに原野・広場に放置されている。そのようなものを盗んだり傷つけたりする者はスウェーデン人の中にはいない、という確たる認識があるからなのだ。(スウェーデンがEUに加盟する際の国民投票の結果が賛成五十一%・反対四十九%と票を割った理由が、ヨーロッパの諸国人に自由にスウェーデンに入ってきてもらいたくない、という感情だった事実にもこの点は反映されている。)学生寮の前にふんだんにいる野生の大型のリスやハリネズミなども、それをつかまえてどうこうしようという考えを抱く者はスウェーデン人には絶無だ。自然に存在するもの・野生にいるものは「そのままにしておく」ことが、他者に苦痛を与えないスウェーデン人流の態度なのである。  こうしたスウェーデン人の国民感情から生まれたのが fridlysa というスウェーデン語の動詞である。スウェーデン語はゲルマン語族に属し、英語やドイツ語と対応する単語がたいていは存在し、さらに、同じ北欧圏のアイスランド語・ノルウェー語・デンマーク語とは姉妹言語で方言同士の差異以上には違わない言語なのだが、この fridlysa だけは、スウェーデン語にしか存在しない単語である。単語の構造は、「平和」を表すfrid-(ドイツ語の Frieden に対応)と「相手が求めるままにしておいてやる」という意味を表す -lysaの部分(英語のlet 、ドイツ語の lassen などが対応)との合成語である。この、「平穏なうちにあるがままにしておく」という動詞が過去分詞になると「保護された、保護されている」という意味にまで発展する。 * * * * *  スウェーデン人の親が人前で自分の子どもに金切り声を上げないのは、決して「世間体をはばかる」ためではなかった。日本人の「世間体」は、生活のさまざまな局面に「恥」と「禁忌」を重んじる態度の反映であろう。しかし、スウェーデン人が子どもを人前で叱り怒鳴りつけないのは、彼らが有する「それを見ている人の苦痛となるような行為は慎む」という、「他者に苦痛を与えないことを何よりもよしとする」心情こそがその根底にあるものだったのである。果たして、それを共有する国民はどこかにいるのだろうか。  政治制度や天皇制(王制)は意図的に、文化の流行などは自然発生的に、スウェーデンのそれらを模倣している局面が実は日本社会にはさまざまな場面で見られる。しかし、スウェーデン人の国民性は、そのさまざまな特質のうちのこうした一つをとってみても、一見すると日本人と類似しているような性質でありながら、その真実のあり方は日本の文化風習しか知らない日本人にはとうてい想像だにできないような性質のものなのだった。  私たちがよりよく人間(じんかん)にあって生きるには、また、私たちが未来に地球環境の中でよりよく生きるには、私たちがもたない知恵や心情を有する他の文化の担い手から学んで自己を変革してゆくしかないだろう。そうすることで、地球規模で他者理解の環(わ)が構築されてゆくはずである。たとえそれが、ニンゲン的愚かさから、我が身にまとうにはとうてい困難であろうとおもえる知恵・心情であろうとも、未来の世代は、その多様な袖に手をとおし続けてみる努力からのがれてはならないだろう。
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あるスウェーデン人女子学生の記憶
- 2020/03/15(Sun) -
知り合いから紅茶をもらい、たまには飲んでみる気になった。
ティーバッグをあけた瞬間、スウェーデンで出会ったある女子学生を思い出した。


私と彼女は、北欧の観光名所でもある、ウプサラ大学中央図書館で終日勉強していた。
指導教授の計らいで図書館に自分の席があり、
それを規定日数使用することが義務付けられていたからだ。


私たちは、休憩のときに、図書館内のカフェでよく落ち合った。



ともに決まった奨学金で生活していた私たちは、日々倹約に努めていたから、
カフェでも、菓子類は頼まず、お茶だけを飲んだ。
無論、お茶もたまに、である。
普段は、自分でもっていった保温ポットとバナナでカフェの外のカウンターにもたれた。



カフェの中の 「紅茶」 は、ティーバッグを1つ買うことになる。
それにポットのお湯を注ぐだけだ。砂糖とお湯はいくらでも使える。


彼女は、飲み終わったそのティーバッグを、大事そうにティッシュにつつんでカバンに入れた。



当時の私は、つつましいがおしゃれな彼女が、
自室でその紅茶の葉を乾燥させて何かに使うんだろう、くらいに考えていた。



しかし、いまおもうと、そうでなかったかもしれない。



彼女は、1杯のお茶も倹約しようとしたのかもしれなかった。





その後、彼女は、ロンドンの商社に就職が決まって故国をあとにした。



その彼女の名前は、  もう覚えていない。



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(本記事は、2008年11月18日に書かれた。)
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これから
- 2020/03/15(Sun) -
自分の期待する自分になったとおもう62歳になる年に、

定時の仕事を辞めて、若いころと同じように、自分の頭脳と身体を鍛えることをして残りの生を生きようと意志した.

いましなければ、頭脳も、肉体も、いまのレベルで維持・微向上させることができないからだ.

唯一の家族が離れて暮らす実家の母親で、彼女と別に生きる意味があるのか、という声もある.

かたや私は毛者たちの世話も容易ならず、それだけでもたいへんな労力である、が、

昔、愛する女とその子どもと別れて暮らす選択をしたときのように、

私には、自分の 空間が必要なのだ.また、毛者たちを葬送するまで世話することは、それも私の義務なのだ.

私には、ここが、与えられた場所:所作する空間なのだろう.スウェーデンがかつてそうだったように.

* * *

もう、外に向かって右顧左眄しない.


集中しろ,    自分の内側に.


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居酒屋の客
- 2020/01/31(Fri) -
        昔、大学のあった高田馬場や、実家のあった横浜や、その後に住んだ仙台や、恋人のいた博多
        とかで出入りしていた居酒屋の主人は、私のことをどう思い出すのか、と、我が家に通う猫た
        ちを見ていておもった。
         
        我が家は、猫の居酒屋のようだ。5代目を迎える猫たちが、ベランダ、台所、玄関、室内にい
        るので、それらに食事を出すのがひと仕事だ。刺身が好物のもの、キャットフードに鶏を焼い
        た油をたらしたものが大好物なもの、焼き肉命なもの、ドライキャットフードに缶詰キャット
        フードをトッピングしたものが好きなもの等々・・・

        しかし、オスは早々にいなくなる。時には、前日私の手に頭をつけていたものが朝に私の眼前
        でクルマに轢かれて死んだり、なにか事故で血を吐いて玄関前に倒れていたりする。

        そんななか、二代目であるメスがこの二週間から来なくなった。
        娘や孫やひ孫たちに遠慮するようになったのか。



        その猫をおもうように、私が毎日通った居酒屋のオヤジや女将たちも私がふっつりいかなくな
        ったときにおもっただろうか。そうなら、すがすがしい。



        いつだったか、昔、八代亜紀だったとおもうが、♪もいちど逢いたい~♪ という歌詞の歌を聴
        いたことがある。
        

「もういちどあいたい」
        そう、思うことが自分にあるのだろうか。
        いきなり喧嘩した恋人と電話がつながらなくなったときなどは、そう私もおもったが、

        いま、もういちど会いたいとおもう昔の恋人はいない


どうせ再会しても
いつかはどちらかが死んで訣れることになる
別離は所詮避けられない
あなたの死に顔見たくないから私が先に死ぬね、
と言った恋人ももういないのだ



そして、いなくなったその二代目も、彼女が生まれて、やんちゃだったころ、
        子を産んで苦労していたころ、その偉大さは私に教えるものがあった。

        恋人にしても、あのとき、あの場所の、あのときの我らだったから交錯することができたのだ。



        スウェーデンでの私の親友は、どこにそんなエネルギーが、とおもうほど、活動的で生き生きしていた。
        毎日、私なら2時間はかかるところを1時間自転車で行き、ダンスの練習をしていた。
        あるとき、私が、外国人でいわれのないことで警察に呼ばれたとき、期末試験の朝だったにもかかわらず、
        彼が試験の前に警察に自転車で行って、私がそんな人間ではないことを言明してくれた。
        そして、その他知り合いみんなに呼びかけて、大勢を同じように動かしてくれた。
        署長は、私に、「きみはいい友人たちをもった」 と言った。


その彼が、私の帰国すぐあとにガンで倒れたとその弟からメールが来た。


Jonney Nilsson


きみも偉大な私の知友だ。


もういちど会いたい、なんていわない。




ありがとう。きみのおかげで、いま、私は、いる。



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開国
- 2019/11/03(Sun) -
日本は明治維新をもって開国したと言われている。外国と交渉をもったのは何も明治になってからではないが、いわゆる欧米諸国の文化に接することで、それまでと比べて革新的変化を遂げたという意味で、その時点をもって「開国」と呼ばれているのであろう。
しかし、いまの日本人と世界の諸国民との相互理解度をみるに、果たして、日本人は真に世界人になったと言えるのか。
まず、日本が知るべき「世界」とは、現在の日本の同盟国の如くみなされているアメリカであってはならないであろう。
なぜなら、アメリカには、我が国にさえ及ぶ長さの文化伝統がないからである。このことはヨーロッパ諸国においては十分に認識されており、優秀なヨーロッパの学生でアメリカに行って就職したいと考える者は極めて少ない事実にも現れている。アメリカから学ぶものは、マクドナルド・ハンバーガーと経営戦略の手法のみ、と明言する国民もいる。
日本が学ぶべきは、尊ぶべき文化伝統をもっている国、すなわち、まず、ギリシャ・ローマなどの共通のふるさとをもつヨーロッパ諸国である。また、それとは大いに異なるもやはり独自の文化をもつ中近東諸国も、最古の文明発祥の地であるとともに、ローマとならぶ世界帝国ペルシャの伝統を有する。そして、ギリシャとならぶ人類の精神的遺産をもつインド。これらに続いて、いまだ日本人には別世界のアフリカ諸国。
これらの国々の民と日本人がどの点において違うというのか。ギリシャ文化を尊ぶからといっても、ヨーロッパの諸国民といっても、いまや日本人と大差ないだろう、彼らがもっている文明は自分たちももっている、いや、彼らにないものも日本には豊かだ、と考えるのが大方の日本人であろうが、その無知に我らは早々に気づくべきなのだ。
数例を挙げよう。日本では、路上や交通機関の中で自分の子どもを叱り飛ばしている母親がよく見られる。ヨーロッパのある国では、そのような母親は皆無である。ぐずって泣いている自分の子どもの前に同じ目線でしゃがみこんで静かに語りかける母親がその国にはいるばかりだ。その国では、いわゆる家庭内暴力もまた消滅に近い。他者に苦痛を与えることが極端に嫌われ、そのような母親、そのような父親が出来上がるのである。
日本のいわゆる「セックス産業」がどこの国にもあると思ってはならない。セックス産業が皆無の国もある。そこでは、では、むしろ、「性教育」として、男女性器の構造や性交の仕組みなどが学校で教えられる。日本人は、それらの「教材ビデオ」さえ、愉悦の対象として追い買い探す国民として知られている。憐れむべきは日本人が生まれてこのかた教え込まれた性意識なのである。ある国では、独身女性が男性を部屋に招いても、そこになんらの「誘い」も込められていないのが常識だ。そこで恥ずべき行為を犯すのは我らの同朋ばかりである。  日本人の身体は惰弱で、欧米人のそれが逞しく見えるのは人種的差異によるものと考えているのが大方の日本人であろうが、それも、欧米人がいかに身体を鍛えることを常識視しているかを知れば、自分たちの怠け心が身体を形成していると日本人は気づくであろう。ジム通いは日本では多分にスタイル保持・肥満防止などの理由から行われているが、ヨーロッパでは、ジム通いは活動的に日々生きるために必須のものとみなされている。ために、ジムには、中学生から老人まで集合して日々筋力と心肺機能を鍛えている。日本の老人が日陰者的な理由の一つに、自分のことを自分の身体でまかなえない弱さがある。
近年、日本でも常識化している「男女平等・機会均等」とはなんだろう。ヨーロッパで発達したその考えと日本の現実とは大いに趣が異なっている。真の「男女平等」とは、男は男らしく、女は女らしく、その上での対等関係、なのである。男と平等だからと、ことさらに肩肘張って男に噛み付くインテリ女史は、男女平等のはきちがえの産物だ。機会均等も、無論、バスの運転手が女であってもよく、保育士が男であってもよいわけであるが、その上で、女性がしたほうがより適切な職業、男性がしたほうがより効果的な職業、というものがあるのも事実である。それをわきまえて初めて両性相互の尊敬が生まれるべきものなのである。
日本では、いまやほとんどの高校生が「大学」へ進学することを当たり前視している。しかし、ヨーロッパでは「大学」は、学問をして、さらに自分の就職適性を高めようとする者か、研究を志す者だけが住む世界である。その期間、親に依存して生きながら、非生産的なことにのみ従事しているような大学生が生きる場所はないのが世界の大学なのだ。
日本人がこのような奇矯な国民となってしまいながらも世界を覗き見、世界で活動することを望見するなら、次世代の若い日本人たちは何をすべきであろうか。
外国語の学習、これは自明のことである。そして、日本の学校でまず教えられる外国語である英語の学習についてもこれは妥当である。なぜなら、英語は世界の大部分の言語であるインド・ヨーロッパ語族の中でも最も進化した言語であるから、英語を学習することで世界の言語の扉を開けるのは理にかなう。また、仮に学校で英語になじめぬ者も、落胆するには値しない。英語がだめでもドイツ語やスペイン語が自分に合う、ということもある。言語は人と同じで、個人によって合う・合わないがあるものなのだ。
ただし、英語学習でも、注意するべきは、昨今の会話至上主義である。その会話とは、買い物や道の尋ね方など、アメリカならば、新聞も読めぬような者でもできるレベルの会話能力を練習する「学校」が日本に雨後の筍のようにできていることだ。しかも、その教師の故国での学歴・教養は一切保障されず、時には、フィリピン人やロシア人が英語教師だったりするのも、日本ならでは、である。
外国語は、他国民とともに有意義な時間をもつために学ぶのである。相手に尊敬の念を抱かせるような言い回しができ、込み入った生活・仕事上の問題などを議論でき、人の心を動かすような手紙やメールを書くことができ、外国の優れた文章を読んで異文化の教養を身につけることができるためには、まず、日本の学校でしているような、読解と作文の練習を着実にすることだ。会話能力は、その国やそれが必要な状況に置かれれば自然と急速に伸長するものなのである。
しかし、真に世界人となるには、外国語能力などよりももっと大きなことを必要とする。
それは、偽りなく生きることができる能力である。「偽りなく」、このことがいまの日本の若者で真にできる者がどのくらいの割合でいることだろう。気に入らない上司や同僚の悪口を陰で言うばかりか、時には虚偽を喧伝しても他者を陥れようとする者が、ビジネスの場でもアカデミズムの場でも幅をきかせているのもまた日本的風景だ。どうして日本の若者はこのように「嘘つき」になってしまったのか。年長者の知見を尊ぶ風潮の消滅、口先だけで周囲を動かせるとの誤った過信、またそれにつきあい軽挙妄動する組織。真に実力ある者ならば、他者を排斥したり陥れたりする必要がない。自分の内面に自信のない者は、固着した組織力に依存し、未知の世界に踏み出すことはしない。
日本の次世代を担う者たちよ、ほんとうの意味で、心身頭脳を鍛え、自らを優れた実存にせよ。そして、自分および自分の周囲にない価値をもつ世界へと雄飛せよ。世界から学び、そして、それをまた我が国に持ち帰り、日本と日本人をより尊ばれるべき存在へと変貌させよ。それが成ったとき、日本の真の意味での開国がなされるのだから。


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(10.8.26.記)
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茶の味
- 2019/08/13(Tue) -
『茶の味』という映画を観た.





三浦友和が私と同じ中学校の同学年だった山口百恵と結婚した時は、私は別に彼女のファンではなかったが、夫となる男の俳優としての名前を知らなかったので、だいじょうぶなのか、などといらぬ心配をしたものだが、






三浦友和はすばらしい(私の趣味には合っている)よい俳優になった.





彼の映画では、『Adrift in Tokyo』(多分、原題は『転々』だったとおもう)と、『Outrage』が出色だと思われる.






正反対のキャラクターを演じられる、という意味で.







そんな意味で、昔の同級生である、彼の細君も、きっと幸せなのだろうとおもって私はうれしくもなるわけである.




adrift in tokyo

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子どもから教わった映画
- 2019/08/13(Tue) -
「ミニオンズ」というキャラクターの鞄やTシャツや下敷きなどを小学校の教え子たちがもっていて、常々、それはどんな生物なのか私は子どもたちに尋ねていたのだが、



きょう、やっと、その映画を、Amazon Prime Video で見ることができた.




あんなに大勢の(形は奇妙だが)忠実な仲間と頭脳のある博士が身近にいて、主人公の Mr. Gru は幸せ者だなぁ、とつくづくおもった.そして、映画に感動すらしてしまった.


そんな私を横で、猫の豆太郎とそのきょうだいのロビが、薄目を開けて寝転がって眺めている.


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授業参観
- 2019/07/31(Wed) -
(本記事は、私がスウェーデンから博士論文を出す目的で帰国して滞在していた仙台の東北大学時代の生活である.それは、2001年の冬のことだ.私が当たり前視していた 「血の繋がらない者どうしの家庭」 風景の一齣である.)



当時、私は長髪を後ろで結わえ、きたないジーンズ・Tシャツ・革ジャンだったが、アキラの母は小綺麗な女だった。
父親が来ていたのは2~3人だったが、そんなこと、私は気にしない。
第一、私は、アキラの父ではない。
アキラは私を、私の下の名前に「さん」をつけて、母親がするのと同じ呼び方を私にしていた。
家に遊びに来る友人が私を「アキラくんのパパ」と呼ぶたびに、アキラは「パパじゃないの、○○さんなの!」と訂正していた。
私も、「きみのパパは世界で一人だけ」と教えていた。

授業参観のテーマは「得意なもの発表会」だった。
アキラに得意なものなんかあるのか、何かを練習していた形跡さえないぞ、と私は、アキラの母親とかなり心配になって教室の後ろの母親たちの群れにうもれていた。
みな、ウタ歌ったり楽器を奏でたり、掛け算九九の暗誦、とか、フラフープ、とかをしていた。
果たして、アキラは…
アキラの番になり、彼は、「さかだち」だった。
なんて地味な……、と見合す私とアキラの母親の顔に縦線が入った。

先生が彼の足をもつようで進み出た。
するとアキラは大声で母親たちの中にいる私を指差してきっぱり言った。
「先生じゃだめ。○○さんにもってもらいたい」

先生は当惑。
いや、それよりも当惑したのは母親たちだった。
普通、自分の父親なら「お父さん」とでも呼ぶだろう。では、この、参観日に来ている長髪の男は、いったいだれなのか、お母さんの愛人なのか…(ま、それはそれではずれではないのだが)、といったどよめきが教室の後ろを占めた。

私は、「よしきた」と進み出た。アキラの母親が私の腕をつかむ。

先生も、特定の父兄を前に出したくないのだろう、私にとまるように目配せした。
再度アキラに「先生じゃだめなの?」と尋ねる先生に、アキラは、「○○さん」と繰り返した。
3度目の先生の申し出に「じゃあ、先生でもいいよ」とOKを出すアキラ。
彼は、先生に足を持たれて、倒立腕屈伸を10回やった。
家で私がしている真似をしたのだ。
母親たちは、逆立ち腕立てを10回したアキラに賞賛を送ったが、私は、私を指名してくれたアキラに心から感謝した。

授業あと、アキラの同級生の女の子のかわいい子の名前をチェックすることを私が忘れなかったのは言うまでもない。

それからしばらくして、テレビ月9の「人にやさしく」で、香取と松岡と加藤が主人公・明の授業参観に行く回があった。
やつらも、明の同級生のかわい子ちゃんを見つけて大騒ぎしていた(松岡などは、美しい母親を口説いていた)。
それでアキラと彼の母親に私がまた笑われたのも言うまでもない。


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休日
- 2019/06/08(Sat) -
六月の

この時期は

沖縄島以西の南西諸島の島々は

蒸す 




だけの季節になっている




このあと来る

焦げる 夏の 




7,8月

と合わせて






自然の  造作  と受け止めている.


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白い巨塔最終話だけを観て
- 2019/05/27(Mon) -
映画ではないが

実家に戻っていて、母親が観ていたというテレビドラマの最終話を一緒に観た.


①教授や助教が地位を餌にして・されて動くのは、いまや医学部だけではない、文学部でさえも下衆な教授はよい教授と同数を下らない程度にはいる点で、現ドラマに失笑

②いまや、ガンは治らない病とは言えないことが世界で常識になっているのに、主人公の狂乱ぶりに噴飯

③田宮二郎主演のものを母親にタブレットで見せたところ、テレビそっちのけで見入っていたことに失笑


山崎女史の名作も、数十年たってしまえば、陳腐な内容になったとわかった次第.


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